第98章 気付かないふりをするのがマナーでは?
だが、それは私にとって喜ばしいことでは決してない。他人とは一定の距離を置いて。他人に自分の本心など見せてはいけない。
そうして生きていく方が、賢いし楽だ。
「それで?いつになったら、本題に入ってくれるのでしょうか」
『そう、だね。こんな時間に押し掛けて、ダラダラしちゃうなんて迷惑この上ない よね』
「…貴女が言い辛いのなら、私から言って差し上げましょうか。貴女がここへ来たのは、桜さんの件でしょう?」
彼女は顔色をひとつも変えず、視線だけをほんの少しこちらへ向けた。
「私なら大丈夫です。もうとっくに平常に戻っていますので。
はい。これで貴女の要件は済んだはずです。それを飲み終わったら、どうぞお引き取りを」
いつも通りの表情。いつも通りの声色で、私は告げた。しばらく、じっとこちらを見つめていたエリは、カップを手に取る。そして、半分ほど残っていた もうぬるくなった珈琲を一気に流し込んだ。
『ご馳走さま』
「御粗末でした。では、お帰」
『ごめん。まだ、帰らないよ』
エリは、口元をハンカチで拭いながら告げた。そして、こちらを指差して声を上げる。
『毒舌に、いつものキレがない!!』
「……はい?」
『大丈夫だとか平気だとか、そんなの嘘。大切な人が死んで、そんなにすぐ立ち直れる人間なんているわけないから』
私は、彼女の伸ばされた指から逃れ雑に返事をする。
「じゃあ、私は人間ではないのかもしせんね」
『あっは!冗談言えるくらいには立ち直ってるの凄いね!』
「…あの、いい加減に空気読んでくれません?」
『読んでるよ。だって分かってるもん。巳波が1人になりたがってることくらい』
空気が読めていたとしても、それを元に行動しなければ何の意味もないというのに。へらっと笑い、悪意もなしに言い放った彼女に教えてやりたかった。
「はぁ…でしたら、さっさと帰れば良いでしょう」
『断ーる』
「何なんですか…。もしかして、私に慰めの言葉でも掛けに来たんですか?」
『ううん』
「本当に貴女、何をしに来たんですか?」
『ピアノある部屋どこ?』
彼女には、言葉のキャッチボールをする気がないのだろうか。