第87章 こっち側は、私の領分だから
懸命に平静を装おうとするエリを目の当たりにすると、逆に俺の中の不安は大きくなっていった。
何を訊けば、何を言えば良いのか分からない俺を置き去りにするように。彼女は支度を始めた。その間、一切の言葉を口にはせず。ただ、真剣な瞳で何かを思考しているようだった。
「…エリ、すぐに朝ご飯作るから」
『……』
「エリ?」
『あ、ごめん。せっかくだけど、今日は支度が出来たらすぐに出るよ。ありがとう』
エリがランニングもせず、朝食も取らないで、この家を出る。そんな事は、彼女がここで暮らすようになってから1度もなかった。
口を噤んでいる時間が、長くなれば長くなるほど、それに比例して嫌な深読みをしてしまう。だからと言って、明るい言葉を掛けられはしない。
彼女の表情が、あまりにも深刻そうで。頭の中で、これからどう自分が動くべきなのか懸命にプランニングしているのが見て取れたから。邪魔をしてはいけない。そう、思ったのだ。
『じゃあ行ってきます。
多分、今日の迎えは私じゃなくて誰か代わりの人が来ると思う』
「分かった。行ってらっしゃい」
靴べらを踵から抜きながら、彼女は言った。対して、俺は出来る限りの笑顔を浮かべて頷く。
すると。エリはこちらをじっと見つめてから、眉間にトン と指先を置いた。
「?」
『そんな、不安そうな顔しないで?龍。
…まぁ、させてるのは私だよね。ごめん』
「い、いや!俺は何も」
『屈んで』
「……うん」
『今日も愛してる。じゃあ行って来ます』
2人の中で、当たり前になった玄関先でのキス。
しかし。当たり前を当たり前に演じようとしている彼女を見ていると…やはり、俺の胸はどうにもざわつくのだった。
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