第87章 こっち側は、私の領分だから
彼女が、前向きな言葉に飛び切りの笑顔を添える時は、何か良からぬ事が裏で起こっている可能性が高い。
しかし、俺は俺なりにエリを信頼しているので、追求はしない。こちらからとやかく言わなくても、必要に迫られれば あちらから話してくれるはずだ。
…まぁ彼女の場合、周りの力が “ 必要 ” になるのが、普通の人よりも かなり遅い。
もっと頼ってくれれば良いのにと、もどかしい気持ちになる。エリとの付き合いが何年になろうと、この感情にだけは 未だ慣れる気配はない。
「何かあったら、いつでも頼ってね」
『あはは。大丈夫だって、龍は大袈裟なん』
一度鳴り止んだ携帯が、再度鳴き出した。
エリは表情から、すっと笑顔を完全に消して。低いトーンで通話を開始する。
『もしも…
っ、ちょ…そんなに大きな声を出さなくても、聴こえてますから。少し落ち着いて下さい』
彼女の携帯から漏れ聞こえた声は、姉鷺のものだった。よほど慌てているのか、怒っているのかは分からない。しかし、エリが思わず耳から携帯を遠ざけたくなるのも納得の声量だ。
『例の件でしょう?私もさっき報告を受け…
え?別件、ですか?
…な…そんな急に?本当なんですか?まさか、彼が退職って…』
“ 退職 ”
言ってしまってから彼女は、はっと口元を手で押さえた。そしてこちらを一瞥すると、再び通話へと戻る。
『えぇ…、はい。
分かりました。詳しくは、出社してから。私も、ご本人に直接 理由を伺います。
はい、なるべく早く出ますので。では後ほど』
「…エリ」
『今日はちょっと、いつもより早く家を出なくちゃ』
「退職って、聞こえたけど…誰か辞めるの?」
『ごめん。まだ、話さない』
話せない、ではなく、話さない。
その言い回しが、とても彼女らしかった。