第75章 俺に、思い出をくれないか
エリは、ピアノにそっと向かい合う。それからゆっくりと、鍵盤蓋を持ち上げた。
譜面台に楽譜を置き、ようやく椅子に腰を下ろした。
しかし、真ん中には座らない。不自然に、片側に寄っているのだ。
隣に座れ。俺にそう言っているみたいだった。遠慮がちに、エリの隣に着いてみる。案の定、彼女はそれに対して咎める事はしなかった。
代わりに、違った言葉を紡ぐ。
『万理、ピアノは専門外なはずなのに。ご丁寧に、譜面がピアノ用に直してある…。大変だったろうに』
独り言のように、ポツリと言った。
いや、本当に独り言のつもりだったのかもしれない。
声を掛けても良いものかと、俺は迷った。迷いながら、視線を楽譜へと向ける。
そこで、短いメッセージを見つけた。
エリへ。
たったそれだけの文字だったけど、それだけで全てが分かった。
これは、大神万理という1人の男が彼女に贈った、ラブソングだ。
『ここまで付いて来たんだから、もう最後まで付き合ってもらうからね』
「え、あぁ!うん」
『彼からもらった、この曲を。私は歌って、弾いて、ちゃんと決別をする。
この曲は…万理から私への、最後のメッセージだから』
言って、愛おしそうに鍵盤を撫でる。そして中指を、くっと沈ませると ピアノは嬉しそうに音を出した。まるで、これから彼女が自分を使って音を奏でるのを、喜んでいるみたいに。
誰からだったか。聞いたことがある。
このピアノは、通常の物よりも鍵盤が重くなっていると。彼女の好みで、わざとそう設定してあるらしい。
いつもここでエリの音を聞く時は、ワクワクとかドキドキとか。そういう楽しみな気持ちで胸が満ちているのだが。
今は、どうしても緊張が優ってしまう。