第75章 俺に、思い出をくれないか
【side 十龍之介】
1人にしてくれ、嫌だ、1人で泣きたい、駄目だ。
そんな押し問答は、しばらくの間 続いた。
人のことを言えた義理ではないが、彼女はどうしてこうも強情なのだろう。
今にも泣きそうな顔をしているくせに、なかなか折れてくれない。早く、楽になって欲しいのに。
『泣き顔を、人に見られるが嫌なんだって…!』
「見ないから!俺の胸に顔を埋めたら、絶対に見えないじゃないか!」
『あぁもう!なんで、そこまで私を1人にするのが嫌なの!』
「どうしてエリは、人に甘えるのがそこまで下手なんだ!」
慰めたいはずが。優しくしたいはずが。いつの間にか喧嘩じみた口論へと発展していた。
すると。何を思ったのかエリは、おもむろにウィッグを頭に乗せて春人の声を出した。
『もう時間も遅いので、そろそろ家までお送りしますよ。シートベルト締めて下さい』
「春人くんになって 俺を家まで送った後に、1人で泣くつもりだ。残念ながら、その作戦は失敗だよ」
俺は彼女にジト目を向ける。するとエリは、顔を背けて小さく舌を打った。
『もう…!頑固すぎ…』
「どっちが…」
エリは溜息をひとつ吐くと、ついに車を出てしまった。手元には、楽譜が握られている。
1人になれる場所へと向かうのだろうか。
当然、その後を追う。
彼女は、再び会社へと入って行った。ゲートを通過して、エレベーターに乗り、廊下を行く。
その間、俺達は一言も話さない。
エリの数歩 後ろを静かに付いて行く。ただ彼女は決して、俺に付いて来るなとは言わなかった。
やがて、エリの足が止まる。
そこは、いつも彼女が作曲をする場所。エリ 仕様にカスタムされたピアノが置いてある、作曲ルームだ。