第75章 俺に、思い出をくれないか
俺が緊張しているのを、知ってか知らずか。彼女は、存外 明るい顔をこちらに向ける。
『サヨナラの代わりに、ラブソングを置いていくなんて。ちょっと酷いよね。まぁ、10年前に私も同じことしたんだけど…。
あ、もしかして仕返しのつもりなのかな』
「うーん。どうなんだろう?仕返しとかする人には見えなかったけどな。
大神さん、凄く優しそうだったし」
『龍は万理のこと分かってない!外見に騙されてるよ。あの人はね、激怒してるのに満面の笑みを浮かべられるような人だよ。本音と建前がバグってるんだから』
「はは。エリと同じだね!」
『…うん。そうかも。時にはそういう術も必要だって教えてくれたのは、彼だったからね』
そう言ってエリは、切なげに目を細めた。
まるで “ そんな彼が 大好きだった ”
とでも言いたげな、物憂げな表情。
鋭い針で心臓を突かれたみたいに、胸がツキンと痛んだ。
すぐ隣のエリに気付かれないよう、目の前に立て掛けられた楽譜を改めて観察する。
ところどころよれて、全体的にくたびれたこの楽譜。積年の想いが、ここに集約されているようだった。
よく見ると、何度も書き直した跡がある。消しては書いて、消しては書いてを繰り返したのだろう。きっとこの楽譜は元本だ。
これが、歌を作る者にとってどれだけ大切なものか、俺にだって分かるつもりだ。
「君への愛が、いっぱい詰まってるんだね」
思わず、自然に言葉が漏れた。
エリの瞳が、きらりと揺れた。その瞳を細めた後、楽譜へと向けられる。
それから、軽く腕を上げて 鍵盤に指が乗る。
彼女を纏う雰囲気が変わった。
音楽が、始まるのだ。