第65章 月みたいな人
促されるまま、人気の少ない場所へと移動する。すると、彼女がゆっくりとこちらへ向き直った。
この赤い顔と、醸し出される気不味い空気感。どれだけ鈍い人間でも、これからどんな話が切り出されるのか予想に容易い。
「九条さんの、仕事に向き合う真摯な姿勢とか…スタッフさんや、私達に対する優しい態度とかを見ているうちに、私…
あなたの事が好きに、なってました」
彼女は言ったが、その理由は後付けではないだろうか。ボクはそう思った。
ボク達 演者は、架空の役柄を本気で演じる。シリアスな場面も甘い場面も 本気で演じ、本物の愛を目指すのだ。全身で愛を囁き、全力で相手を求める。
そういった臨場感のあるシーンを興じるうち、彼女は錯覚してしまったのではないだろうか。
姫条 天馬という人間がこの世に存在し、そして自分を想ってくれていると。
彼女が愚かなわけではない。人間の脳は、そういうふうに出来ていると聞いた事がある。
たとえ架空のものであっても、特別な関係を続けていれば 本当にそちら側へ引っ張られるのだと。
恋愛ドラマ撮影後に、ビックカップルが誕生したという話を聞くのは そういう理由からだ。
実は、少し期待していた部分もあった。芝居であっても、もしかしたら 本物の恋人になれるのではないか、と。
ただ、ボクがそう願った相手は 目の前の彼女ではなかった。
「……本当に申し訳ないのですが、ボクはあなたの事をそういう目では見れません。
だから、お付き合いをすることは」
「いいんです。分かっていましたから」
「え?」
「フラれるって、分かってました」
ボクが弾かれたように顔を上向けると、彼女は悲しげに笑って言う。
「好きな人が、いらっしゃるんですよね」