第65章 月みたいな人
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「お、おいおい…たった1日で、彼に何があったんだ…っ」
監督の感嘆の声は、こちらには届かない。ボクはただ、カメラの前で涙を流すだけ。
昨夜の気持ちを、寸分違わず思い返して。あの、どうしようもなく理不尽で、胸が張り裂けてしまいそうな 形容し難い感情を。
この感情を、たった一言で表されるのは癪だけど。人は、今ボクが置かれた状況を きっとこう呼ぶのだろう。
“ 失恋 ”
「オッケー!オッケーオッケー!天くん大オッケー!」
「ありがとうございます」
ずっと欲しかった言葉を耳にして、悪夢から目覚めた心地だ。しかし緩んだ表情を表に出すはずもなく、礼を告げるだけに留める。
今の演技に興奮した様子の監督。勢いのままハグを求めてきたが、なるべく自然に躱す。
すると、珍しく笑顔の彼女が待っていた。
『お疲れ様でした』
「どうだった?」
『監督の感激ぶりを見て、分かりませんでしたか?最高でしたよ』
「そんなに良かった?」
『はい。今すぐ抱き締めてキスをしたいくらいに』
「してくれても いいけど」
『我慢しますよ』
しなくても良い我慢を決め込んだエリ。共に、楽屋へと戻る。
彼女は興奮冷めやらぬ様子で、道中も話し続けた。
『周りで見学していた人達も、スタッフ達までが、天の演技に釘付けでしたよ。中には、涙ぐんでる人までいましたから。
私も、自分の事のように嬉しかったです』
「自分の事のように…。それ、あながち間違ってないよ」
『え?』
「ボクがあの境地にたどり着いたのは、半分はキミのおかげだから」
ありがとう。そう言おうかとも思ったのだが、結局その言葉は伝えなかった。
自分以外の男を愛しているキミのおかげで、求められる演技が出来たのだから。
だがやはり、それに対して素直にお礼を言えるほど ボクは出来た人ではないらしい。