第58章 今日1日はお前に付き合うよ
私は、自分のおしぼりを差し出す。彼はそれを受け取って口元を拭った。
そこへ、私のブレンドが運ばれて来る。どうぞ、と言われて置かれたカップ。どうも、と答えて引き寄せる。
「…っは!
いやいやいや、俺と、あんたが、デート?」
『おかえりなさい』
ようやく我に帰った楽に、短く言う。そして、WEDGWOODの柔らかな質感のカップを ソーサーごと持ち上げる。
すぐ、ふわりと香ばしい珈琲の香りが鼻をくすぐった。
「おい。もしかして、あんたが遅刻して来た理由ってそれか?
下らねぇ演出しやがって…彼氏を待たせる彼女気取りかよ」
『貴方、そういうベタなの好きでしょう』
「…ああ。面白いよ、それ。
で?今日1日、自分を俺にエスコートさせようってか?図々しい奴だな」
『あ、気が付かなくてすみません…楽はもしや、女役がやりたかったですか?良いですよ。では私がエスコートする役を引き受けましょう』
「なんでそうなる!」
目の覚めるような、爽やかな深い翠のカップ。中の黒い液体。白く上がる湯気。
揺れる表面に軽く息を吹きかけて、尖らせた唇から珈琲を吸い上げる。
『…おいしい』
「……はぁ。俺、自信なくなっちまった」
『自信とは?』
「お前の事、最近は結構分かってる気でいたんだよ。なのに…
いま、あんたが何考えてんのか これっぽっちも分からねぇ!」
『それは好都合ですね』
「は?」
カップをソーサーに戻すと、カチャリと小さな音がした。揺れる中身からは、まだ湯気が溢れ出てくる。
『知り尽くしてしまった相手とのデートよりも、まだ知らない部分のある相手とのデートの方が、絶対に楽しいでしょう』
「…ははっ。
もうそれでいい。まだ意味分かんねぇけど、今日1日はお前に付き合うよ」