第56章 見てない!見てない見てないよ!
『ふぁー…あー、最高』
体を洗い、ゆったりと湯に浸かる。遠慮なく足を伸ばし、思い切り骨を休める。
男湯の露天は、檜作りであった。対して女湯は、石造り。漆黒の滑らかな石が敷き詰められている。真ん中にある大きな飾り石は変わらない。
長く息を吐き、空を見上げる。
突き抜けるような闇の中に浮かぶ星、月。紅葉の暖色。それらを、白く柔らかな湯気が霞み掛けていた。
なんて、情緒的な景色であろうか。
私の目の前に、ヒラヒラと1枚のモミジが舞い降りる。軸の部分を摘んで、湯の中から救い出す。そしてくるくると回して手遊びしてみた。
今日の記念に、持ち帰ろうか。旅の記念で、栞にしてみても良い。
『よし、そろそろ上がろうかな』
おそらく、40分くらいは入っていたと思う。湯の温度は もう通常に戻っており、39度くらいだろうか?それなりに体が火照っていた。これ以上は逆上せてしまう。
私は ザバっと立ち上がり、側に置いていたフェイスタオルを手に持った。
その時だ。
ガラガラと、入り口が開いた音がした。
サァァと血の気が引いたのは言うまでもない。大石の陰に身を隠し、向こう側の様子を伺う。確実に分かるのは、客ではないという事。
私は心の中で願った。祈った。
どうか、旅館のスタッフであれ。この際、男でも女でも良い。とにかく、スタッフであれ!
私が祈っていると、楽しげな声が向こうから届けられる。
「春人くん。
…いる?」