第54章 もう全部諦めて、僕に抱かれろよ
こういう時って、どれくらいの時間ここにいるのが一般的なのだろう?
あまり長湯していると、どれだけ入っているんだよ。と呆れられるだろうか。あまり早いと、男の俺より早風呂ってどうなの。と呆れられるだろうか。
こんな下らない事で悩むなら、千に予め、どれくらい入るのか聞いておけばよかった。
なんてグダグダ考えていると、それなりに時間が経ってしまった。
結局、急いで支度をする羽目になる。持って来た浴衣に身を包み、手早く髪を乾かして、それなりの化粧を施した。
風呂上がりに化粧をするのは、あまり気持ち良くはないけれど。それでも、あの綺麗な男の隣に立つのだから、それなりの身なりでいたい。
もう、千は部屋に戻っているだろうか。そう思いながら暖簾を潜ると、まさかの同じタイミングで男湯から千が姿を現した。
薄っすらと桃色に染まった頬。乾かされたばかりの、さらりとした髪。浴衣から、チラリと覗いた鎖骨…
「驚いた…。凄いタイミン」
『綺麗だ…』
「!!
ちょ…っと、ふふっ。それ、普通は僕が言う台詞でしょう。先に取らないでよ」
『あ、ごめん…』
つい、ポロリと口から零れ落ちてしまった。そんな私の ただの本心を受け、千はしばらく喉奥で笑っていた。
そんな彼を横目で見やれば、ちょうど その長い髪を耳にかけているところだった。ただそれだけの仕草に、どきりとしてしまう。
手首には、黒い髪ゴム。温泉に浸かる時に使用していたのだろうか。髪を纏め上げた彼を想像して、また顔が熱くなった。
そして2人して部屋に帰ると、ちょうど部屋食の準備が整おうとしているところだった。
『わ!凄く美味しそう!』
「そうね」
ついつい はしゃいでしまった私に、中居さんらしき女性は にっこりと微笑みをくれた。
チェックインした時の私は男だった。それなのに、今は完全なる女。そんな不自然な事象を目の当たりにしても、動揺のひとつも見せやしない。
プロだなぁ。と感服している間に、彼女達は仕事を終えてしまう。丁寧にお辞儀をしてから、姿を消したのだった。