第11章 この日や天晴れて、千里に雲の立ち居もなく
銀邇は草庵の裏手にある井戸水で手を洗う。
あの少女の言っていたことが本当なら、彼女の印は消えるだろう。
銀邇は井戸の中を覗き込んだ。
薄暗い底に波打つ水面に、ひどく疲れた顔がある。
息を吐くと、さっきの情景が思い起こされ、突如、胃の底から湧き上がるものを感じる。
それは喉元まで上ってきて、痛みと熱を伴い——
「おえっ」
井戸のすぐ脇で吐いた。
むせ返るように、先程の出来事を忘れるために吐き出す。
肩で息をして呼吸を整える。整え切る前に井戸水で口を洗う。
口に含んだ水を吐瀉物の上に吐き捨て、砂を塗して隠す。
銀邇が証拠隠滅をしていると、公任が近寄ってきた。
「見ーちゃった」
「何をだ」
公任は黙って銀邇の足元のそれを指す。
「だからって、どうという事もないんだけどね」
公任は一度区切って、銀邇を真っ直ぐ見る。
「陽露華ちゃんは“あの子”じゃない。わかってるよね?」
銀邇は黙っている。
「俺も初めて見た時はびっくりしたよ。瓜二つなんだもん。生まれ変わりなんじゃないか、って思っちゃったけど……そんな事、あり得ないもんね」
銀邇は黙っている。
「だって“あの子”……葉留佳(はるか)はまだ生きてるもの」
銀邇が動いた。
両手で公任の胸ぐらを掴み、顔を一気に近付けた。
公任は銀邇の口から酸の臭いがして顔を顰めそうになったが、場を読んで顔にも口にも出さなかった。
「何故わかる」
銀邇は地を這うような声と今にも射殺しそうな目で問いかける。
公任は目を細め、口の端を持ち上げた。あたかも全てを見透かしているかのように。
銀邇は思わず手を離し、後ずさる。背が井戸に当たり、これ以上の後退を妨害する。
「何故だと思う?」
公任は銀邇に質問を返す。表情に依然として変化はない。不敵なその笑みは、凡人を慄かせるには充分な効力を持つ。
銀邇が震える手を握りしめた刹那。
「おふたりさん! 連れの方が目覚めました!」
草庵の縁側から、少女の声が聞こえた。