第1章 思ひせく胸のほむらはつれなくて涙をわかすものにざりける
旅籠に戻ると、父は既に昼食の準備を終え、Uに配膳した後だった。
急に増えた宿泊者に、父は嫌な顔一つせずに追加の昼食を振る舞ってくれた。
午後になると、葵が泣きそうな顔で旅籠に顔を出し、陽露華の怪我の状態を見て泣き出した。
土間で土下座をかますと、治療費は負担するからと陽露華を診療所に、文字通り引っ張って行こうとして、父に止められた。
父は新しく来た宿泊者に陽露華のおんぶを頼むと、優男が元気よく名乗り出たが、父は“銀ちゃん”と呼ばれた男を選んだ。優男は不貞腐れて膝を抱えた。
診断結果は捻挫。松葉杖は要らないと言われたが、歩行はなるべく控えた方が良いらしい。
3人が診療所から戻ってくると、ちょうどUが学資の為に働きに出るところだった。
彼と入れ替わりに旅籠に戻ると、優男は茶の間で切布の整理をしていた。
父に頼まれたそうだ。
「そういえば、お兄さん達名前は? うちは日向葵(ひゅうが あおい)!」
まだ旅籠に居座る気でいる葵が切り出した。
真っ先に答えたのは優男。
「俺は佐伯公任(さいき きんとう)だよ」
その名に陽露華は反応を示す。
「あの藤原公任様と同じですか?!」
陽露華は頬を赤らめて興奮気味に質問する。
公任が肯定すると、陽露華はますます嬉しそうに両手を頬に当てる。
藤原公任とは平安時代中期の公卿・歌人である。和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話は、小野宮流の嫡男として芸術面での意地を見せたともいえる。
葵は陽露華の様子を気にも止めず、もう1人にも聞く。
「安津銀邇(あんず ぎんじ)だ」
これを聞いて、葵が真っ先に思い浮かんだのが、杏。
銀邇は薄々感づいた様で、
「お前の思ってる漢字じゃねぇぞ」
と言った。
葵は頭を掻きながら笑って見せた。そして誤魔化す様に陽露華の肩に手を置く。
「んで、知っとると思うけど、さっきから興奮状態から戻れてないこの子が、村崎陽露華」
公任と銀邇は初めて知ったかの様な反応をするので、葵は陽露華に呆れた。