第4章 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける
「梅花」
「はい、百合子様」
百合子は梅花を呼んで、静かに言う。
「そろそろ陽露華の着替えをしてあげて。こんな着物では、皆の笑い者だわ」
「承知致しました」
「そして陽露華」
百合子は陽露華に向き直る。
「今日という日が、これ程嬉しい年はなかったわ。来てくれてありがとう」
陽露華はまた溢れてきた涙を堪えて、百合子に笑顔を見せる。
「こちらこそ、またお会いできて光栄に思います。本日はお誕生日おめでとうございます」
その笑顔は、初夏に降る霧雨に輝く紫陽花のようだった。
噴水を背に門を見ている銀邇の元へ、紅子が近付く。
「何を見ているの?」
銀邇は紅子を一瞥すらせず、黙って前を向いていた。
紅子は銀邇の隣に立ち、同じ方向を見る。木々の真上に太陽が輝く。
「先程、給仕係のものがお茶を入れてくださったの。一緒にどうかしら」
銀邇は答えるのも億劫で、黙って庭を歩き始める。
紅子はぴたりと後ろについて、早足の銀邇を追った。
「甘いものが苦手なら、お酒を用意させるわ。摘みもあるのよ」
銀邇は振り向かない。
「そういえば、もうすぐ昼食時ね。何か好きな食べ物はあるの?」
銀邇は振り向かない。
「お腹が空いていないのなら、私が庭を案内しましょうか? でも、裏庭はお誕生日会の為に準備中なの」
銀邇は振り向かない。
「夕方からのお誕生日会の為に、皆正装に着替えるの。私が見立てて差し上げるわ。きっと気に入るわよ」
銀邇は振り向かない。
遂に紅子は痺れを切らした。
「銀! 何か言って——」
紅子は伸ばした手を銀邇に鋭く叩かれた。
「女じゃなかったら殺してたが、3度目はないと思え」
銀邇の声に抑揚はない。目の奥は暗く、紅子を人間として見ていなかった。
紅子は叩かれた右手を摩りながら銀邇を見上げる。
「……どうして?」
「『どうして』だと? お前はよっぽど死にたいようだな」
銀邇は腰から刀を引き抜き、紅子の喉元に刃先を向けた。
紅子は恐怖で顔を歪め、「口外しないので!」と言って館に走って行く。
銀邇はその背中を追うことも見送ることもせず、静かに刀を鞘に戻した。
「俺には、時間がねぇんだ」