第26章 番外編 ② 或る風の息吹の
「···ハッ、そいつァどうだろうなァ···」
赤みがかった満月を背に、実弥もまた少し歪で余裕のある笑みを浮かべた。
わざわざ忠告されなくても実弥には既知の情報だ。手持ちの装備を翳したところで仕留められた試しは絶無。人間であれば致命傷となるだろう急所に力いっぱいで斬りかかっても、それにより鬼が息絶えることは、皆目なかった。
陽光の下 (もと) に晒さなければ奴らは消滅しないのだ。
とはいえ実弥には切り札がある。
鬼を確実に捕らえることのできる切り札が。
「···あ"、?」
パタ···。裂けた鬼の口脇から大粒の唾液が滴り落ちたことに、鬼自身がそこではじめてなにかを察知した風な表情をした。
「やげに腹が疼ぐと思ぇぁ···おマエェ······」
尖るように突き出た喉仏がごくんと波打ったその刹那──。
「稀血がぁ"ぁ"ぁ"あ"ア"ア"ッ"!!!」
「!!」
田畑の地一帯に、夜陰を引きちぎるような濁声が轟く。
鬼は双眸を血走らせ、唾液まみれの貪婪 (どんらん) な牙を剥きながら実弥との隔たりをぐっと縮めた。
ガギィ···ンッ"!!!
逃げるように後方へと飛び跳ねた実弥の鼓膜を刺したのは不愉快な金属音。跳躍と同時にとっさに回し投げたのこぎり鎌を、鬼は鋭い歯牙で真っ二つに砕き落とした。
やはり今宵も手具足は形ばかりの盾にしかならない。早急に"あれ"を使うしかない。
衣嚢から小型の刃物を取り出すと、実弥は手慣れた様子で躊躇いもなくざっくりと前腕を斬りつけた。間を置かず、深く裂けた傷口から多量の血液があふれ出す。
鬼と対峙するたびに、実弥はこうして己の身体を斬りつけては自らの血を流すのだ。
無言のまま見据えた先には、さきほどの俊敏さが嘘のように足取りを鈍くした鬼の姿があった。
肉体から吹き出た実弥の血は、例え遠く離れた場所にいたとしても"特別でめずらしい"ものだとわかる強烈な香りを発する。
鬼を、──酩酊させるほどに。