第25章 番外編 ①:*・゚* 或る風のしらべ *・゚・。*:
「実弥、手を出してもらえる?」
「まさか俺の手に書き記すっつぅんじゃァねぇだろうなァ?」
「ふふ、当たり。都合のいい洋紙が見つからないし、私も身体を起こせそうにないから······ね?」
万年筆のかぶせを外し、お願い、と甘えてみせるように星乃は言う。一刻も早く実弥の反応を知りたいのか、まだ疲労の色を残した顔に差すほのかな朱から逸はやる想いが伝わってくる。
仕方ねぇなァと、実弥は内心で声色を柔くした。
指先を天井に向け、相撲業の突きだしのような仕振りでなまえの前に掌を差し出す。
「すぐに消えちまうと思うぜェ?」
「それでも大丈夫。まずは実弥に確認だけでもしてもらいたいの」
正式に名前が決まれば、のちに林道が命名書に書き記してくれることになっている。
筆先にくすぐられるこそばゆさを我慢することひととき。星乃が満足気に書き終えたのを確認し、実弥は掌をくるりと回した。
刹那、実弥の目に飛び込んできた文字がゆらりと浮かび上がったような気がした。
「······どう、かな?」
しばし黙然と掌を見つめていたことろへ星乃の声が滑り込む。ハッとして視線を上げれば、目尻の端の景色が滲んだ。
もう一度目線を落とし、今度は横たわる小さな拳に人差し指を持ってゆく。儚い力で大人の指先を掴みとってみせる我が子のそれは、赤子の反射行動だとわかっていても生命のまばゆさを感じずにはいられなかった。
時折、眼前に広がるこの光景はすべて幻なのではないかという思いに駆られることがある。
木漏れ日の中で微睡むような、穏やかな日々。人並みの、ありふれた幸福。心満たされる夢を見ているのだと。
己に与えられた生を咀嚼し、尊さを噛み締めながらここに立っていることには違いない。しかし同時に、己が当人である事実をすぐさま実感し得ない感覚に陥る。
なにが夢で、なにが現実か、時の間彷徨 (ほうこう) してしまうのだ。
長年鬼狩りとして生きてきた過去がいまだ無意識の場所に深く根付いて、真夜中に布団から飛び起きてしまう現象にもそれは顕著に表れていた。
そんな日々を過ごしているせいもあるのか、ふと遅れて押し寄せる多幸感は制御することが困難で、実弥の心髄をいたく締めつけるのだった。