第26章 翡翠の誘惑
「屋敷には広い風呂もある。ゆっくり入れ」
レイがまたマヤだけを見つめて、話しかけてきた。
隣のリヴァイの無言の圧がすごい。
それに気圧されてマヤが黙っていると、レイが心配そうに訊いてくる。
「どうした? 気分が悪いのか?」
「いえ… 大丈夫です…」
……こんなことなら沈黙の方が良かったかな…。
そもそもどうしてこの馬車は、兵長とレイさんと私だけが乗っているんだろう…。
今ごろもう一両の馬車では、ペトラとオルオが団長と楽しくおしゃべりをしているのかと思うと、マヤの小さな口からはため息が人知れずこぼれた。
一方、リヴァイは。
乗りこんだ馬車がゴトゴトと揺れるたびに、自身の心の苛立ちと共振しているみたいに感じた。
苛立ちの発端は、カインが事件を起こしたあの二階の部屋だ。
エルヴィンに命じられて憲兵団本部からナイルの薄ら髭を、グロブナー伯爵の屋敷に連れ帰った。
エルヴィンから聞いていたミスリル銀の疑惑以外にも、ペトラへの暴行疑惑があるらしい。
ベッドの上で寄り添うペトラとマヤ。衣服の乱れはないように見え、恐らく大事には至らなかったのだろう。
良かった。
もしペトラのドレスが引き裂かれてでもいたならば、裁きなんかクソくらえだ。俺があのいけ好かねぇキザ野郎の息の根を止めるところだった。
伯爵と愚息の連行が終わり、場の緊張がやわらいだ。
真っ先にペトラとマヤのもとへ… と思えば、先客がいる。
……レイモンド卿?
なぜペトラの… いやペトラじゃねぇ。
マヤだ。
マヤしか見ていねぇ。
レイモンド卿が懐からヒールのある華奢な靴を取り出した。ひざまずいてマヤの脚に手を伸ばしている。
……あ?
状況が理解できねぇ。
なぜマヤは裸足なんだ。
なぜレイモンド卿がマヤの靴を持っている。
マヤが左右に大きく手を振って、顔を赤くしてレイモンド卿の申し出を断っている。
よくはわからねぇが、給仕に変装していたから、訳あって靴を拾いでもしたか。
……だが、靴を落とすとは一体どういう状況だ?