第15章 壁外調査までのいろいろ
空っぽになった両手に目を落としながら、マヤはつぶやく。
「いえ… 何も映ってませんでした」
「そっか…」
そう言いながらナナバは両手の中の湯を眺めて一瞬淋しい顔をすると、湯がこぼれ落ちる前に勢いよく顔にバシャッとかけた。
「……ナナバさんは気になる人がいるんですか?」
マヤの問いかけに、両手で顔を覆ったまま答える。
「……いたよ」
……いたよ。
調査兵団に身を置く者として、その “いたよ” の過去形の意味は痛いほどよくわかる。
マヤはズキンと脈打つ胸の痛みとともに、ナナバをまっすぐ見て謝った。
「……ごめんなさい…」
両手を顔から離したナナバは、マヤの真摯な瞳を覗き返した。
「謝らなくていい」
「はい」
「……班長だったんだ」
ナナバは静かに語り始めた。
「最初に配属された班のね…。優しい人だった。いつも焦って余裕のなかった私に、三つ数えろって教えてくれてね」
「いつも焦ってた…?」
マヤから見たナナバは大人っぽくて、いつも余裕があるように見える。
「……私は家族の反対を押しきって調査兵団に入ったんだ。縁を切られたも同然でね。だから… ずっと焦ってた。自分の選んだ道に意味があると信じたくてね」
ナナバは遠い目をする。
「でもその人は、いつも悠然と構えててね。“ナナバ、何をそんなに焦ってるんだ。焦ってもしくじるだけだぞ。いいことを教えてやる。やばいときほど落ち着け。“助かりたければ三つ数えろ” ってね」
その印象的な言葉を、マヤは思わず繰り返した。
「……助かりたければ三つ数えろ…」
「あぁ そうさ。その言葉のお陰で私は何度も窮地を脱したよ。三つ数えてる間に冷静な判断ができるようになったんだ」
「それでナナバさんは… その人を好きになったんですね。自分を導いてくれたその人を」
「ん…。ま、そうなんだけどね…。でもずっと気づいてなかったんだ」
「え?」
「私が自分の気持ちに気づいたのは、その人が死んだあとさ」
「………」
マヤはどう返事をすればいいかわからず、ただナナバを見つめた。
泣きそうな顔をしているマヤに気づき、ナナバはパシャッとお湯をかけた。