第29章 カモミールの庭で
………!
マヤの顔がゆがむ。
「ザックは…」
ボストンバッグを持つ手に力が入る。
亡くなった事実を告げないといけないのに、声が出ない。
「ザックは亡くなった」
マヤの様子を見て、静かにリヴァイが言葉を引き継いだ。
「……そうか。そんな気はしていた」
マスターは空を見上げて、どこか遠くを見るような淋しい顔で。
「……あれから何年経つだろう。あの男が俺の店に来た日から…」
「……あの男…?」
マスターの苦しそうな声。マヤは思わず、言葉を拾う。
「メリーは俺の店で給仕をしていたんだ。ある日やってきた客の男とメリーは恋をして、そのまま駆け落ちした。メリーのおふくろさんが俺の店に来て愚痴を言うたびに情報が増えていった。メリーがメトラッハ村にいること、男の子を産んだこと。許すから帰ってこいと手紙を出しても全然帰ってこないこと。女の子を産んだこと。息子が調査兵になったこと。そして…、男が亡くなったこと」
マスターは腰に当てていた手を下ろして、とぼとぼと歩き始めた。
「メリーが幼い娘を連れて帰ってきたと、おふくろさんは喜んでいた。男が亡くなったから、調査兵になったメリーの息子も帰ってくると。今は男が亡くなったショックで家から出れないメリーもそのうち元気になって、俺の店に顔を出すのを待っていたんだ… 俺は…」
「………」
マヤは無意識のうちにマスターの背中に手を伸ばした。
体格のいいマスターの背中が、やけに小さく見えたからだ。
もちろん背中にふれる訳にはいかないし、声のかけ方もわからない。
行き場のないマヤの手は宙を掴んだ。
マスターはすべてを吐き出して、歩いている。その背中からは、やるせない気持ちがあふれ出ていて。
やはりどうしたってマヤは、どうすればいいかわからなくても、声をかけずにはいられなかった。
「あの…、話してくださってありがとうございます…」
言いながらも自分で、“この人は何も私たちのために打ち明けてくれたのではない” とわかっていた。
わかってはいるが、それでも。
苦しい胸の内を伝えてくれたことに寄り添いたい。そんな想いがマヤを突き動かしていた。