第29章 カモミールの庭で
“頭の体操” のおかげで、危機を免れた。
危機というほどのことでもないが、ミケにとってはそうなのだから仕方あるまい。
マヤの笑顔を盗み見しながら感謝の意をこめて、手許の新聞を丁寧に畳んだ。
さて… それから時は経ち、マヤはリヴァイの執務室にいた。
やはり壁外調査にまつわる膨大な報告書の処理に追われ、会話をする暇などないくらいに忙しい。
もともと執務中に無駄口を叩いたりはしていない。だが何かの折にふれて、ひとことふたこと言葉や笑みを交わすことくらいはある。
しかし今日はそれどころではない。
もちろん壁外調査後の多忙も原因ではあるが、実は他に大きな理由があった。
……兵長の顔をまともに見れない…。
こんな風になるなんて、執務室に来るまでは思ってもみなかった。
ミケの執務の補佐を時間まで勤めて、いつもどおりにマヤはここにやってきた。
扉をノックして “失礼します” と入室して、正面の執務机に座るリヴァイの顔を見た途端に急に “それ” はマヤの心を支配した。
……恥ずかしくてたまらないよ…。
思い返せばエリー城の尖塔での夜の見張りを終えてから、リヴァイとは全く何も接点がないままに帰還した。
帰舎してからは互いに忙しく、今ここで初めて二人きりになったのだ。
リヴァイの青灰色の瞳を見るだけで、あの夜にその瞳で射抜かれたことを思い出す。
“マヤ” と名を呼ばれるだけで、耳元でささやかれた熱い息の感触がよみがえってくる。
なんとか平静をよそおって、いつも執務をしているソファに座って山のようにある書類を手にしても、リヴァイと尖塔で過ごしたときのことが思い出されて仕方がない。
「マヤ」
「……は、はい!」
反射的に顔を上げてリヴァイの方を見れば、その薄いくちびるに目が行ってしまう。
……私、兵長とキスしたんだ…。
今さらながらリヴァイのくちびるの感触。息苦しかったこと。口の中でうごめいた舌の熱さ。初めて感じた身体の奥底からの突き抜けるような、痺れるような甘い快感。打って変わってただ優しく髪を梳く、白く骨ばった指。
そのすべての愛おしい記憶がリアルによみがえってきて身体が熱い。きっと顔も赤いに違いない。
「……大丈夫か? さっきから様子が変だが…」