第27章 翔ぶ
本能的にあの丘だとひらめいた瞬間に、俺は走り出していた。
丘へとつづく山道を。丘の上に立つあの樫の木を目指して。
見えてきた。
マヤはいない。
俺の足が止まった。
………。
丘にマヤはいなかった。いつもそこに悠然と立っている樫の大木。その木に寄り添って立っているだろうと想像した愛おしい女の姿はない。
なんのために丘までのぼってきたのか、走ってきたのか。
……もうあそこに行っても仕方がねぇ。
止まっていた足を動かして、丘に背を向けて帰ろう。
そう心に決めたときに、あらためて俺の目に入ってきた景色は…。
遠き壁に落ちようとしている夕陽に照らされた丘の緑も、咲いている白い小花も茜色に染まりゆく。シンボルツリーの樫も鮮やかに照り輝いている。
そのあまりにも幻想的で美しい夕映えの丘の光景は、俺の心を動かした。
気づけば一歩、二歩と足が丘をのぼっていく。まるで樫の木に吸い寄せられるように。
とうとう樫の木のそばまでやってきた。
そこから見下ろしたヘルネの街は赤く燃えていた。空も、壁も、街も… 落ちゆく太陽に染まる。
世間ではきっと、これを美しい景色だと言うのだろうな。称賛し、高名な画家は絵に描いてこの一瞬を後世に残すに違いねぇ。
無粋な俺には芸術的なことは全くわからねぇが、ただひとつ。
ただひとつ想うことは…。
……マヤと一緒にこの景色を見たい。
そう強く願った。
目の前に広がる何もかもが茜に染まった美しい光景は、強く確かな想いを俺に知らしめた。
美しい風景も、美味ぇ酒も食事も、些細なことで笑い合う日常も、訓練で流す汗も、朝の鳥のさえずりも。
どんなこともすべて、マヤと一緒に見て聞いて感じないと無意味だ。
マヤをレイモンド卿には渡さねぇ。
……今ならまだ間に合うはずだ。
何がなんでもマヤを捜さなくては。
とりあえず兵舎に戻って情報収集だ。新たな動きがあるかもしれねぇし…。
そう思って丘を下りようとしたところへ、それは聞こえてきた。
かすかだが、女の忍び泣く声。
……空耳か?
初めてこの場所でマヤを見つけたときも、マヤは泣いていた。
……ハッ、感傷的になってあのときのことを思い出すなんてな…。