第1章 夜明け
由緒正しい猿楽一座として名高い△△座は、その流れをはるか平安の頃にまで遡る一座でもある。
本拠はここ大坂に置いてはいるが、古来からの猿楽、能の演舞には定評があり、
各地の富農や豪商、はては名のある大名といった愛好家からの公演の依頼は引きも切らない。
特に、今の座長に代替わりしてからは、庶民の田楽踊りや、昨今巷で大流行している傾き踊りなどを取り入れ、
能面をつけず、化粧のみで舞うなどのその類をみない新しい演出が大評判となり、もはや稀代の名猿楽一座との呼び声も高く、
その人気は、都はおろか名も知らぬ辺境にまで届き、△△座の公演は、日本に知らぬ者なしと言っても過言ではなかった。
内弟子も数え切れぬほどに膨れ上がり、その規模はかつてないものになりつつはあったが、
しかし、時代は必ずしも、一座の味方ではなかった。
愛好者だったこともあってか、猿楽や能に比較的寛容だった太閤『豊臣秀吉』が、
その地位を脅かす『徳川家康』に暗殺されたことから、状況は一変したのである。
世は再び戦国の騒乱のただ中に突入し、
何よりも一座にとっての暗雲となったのが、太閤の跡目を継いだ『石田三成』の存在であった。
『凶王三成』としても知られる彼は、今は亡き秀吉公への痛烈な思慕、そしてなによりその性情から、
一切の芸能に理解を示さないらしく、特に軽薄な傾き踊りや猿楽の滑稽物といった演目には、
「秀吉公の死を経てなお、くだらん踊りを続けるとは何事」とばかりに憎悪すらしているようであった。
最前、河原で滑稽ものを中心に演じていた傾き踊りの一座が、運悪く通りがかった石田勢の目に留まり、
その場で舞台を焼かれた上に、一門取り潰しとなったことは記憶に新しい。
それ以外でも、石田の名のもとに取り潰しとなった一座を上げていけば、もはや両手両足を使っても数え足りることはないだろう。
よって、この大坂に居を構える、少しでも分別ある一座は、ごく一部の伝統能を残し、
滑稽物や人情物の演目を一切その看板から下ろしたのであった。
その分別ある一座たちの中に、△△座は含まれていない。