第2章 宵待月
所は変わり、舞台の裏手、楽屋のある一角は、今や大嵐のような忙しなさのただ中にあった。
衣装はどこだ、化粧は済んだか、舞台の調子は、楽師の道具が見当たらない、四方八方から声が飛び、
てんやわんやの大騒ぎである。
そんな楽屋の隅には、装いを完璧に整えた●●が座り込んでいる。
ただ座っていることすらむず痒くなるほど、集中が困難な喧噪のなかで、
●●だけはじっと目を閉じて、何やら瞑想にでもふけっているようだった。
その様子に、ワキを務める一番弟子の兄弟子は、舌を巻いた。
まったく、鬼神の如き集中力だ。
――御前公演の演目が「巴」と決まった時。
またその主役、「シテ」が●●と決まった時、当然のごとく上弟子たちは全員で猛反発した。
孫可愛さに、目がくらまれたのではありますまいな、と詰め寄る者もいたほどだ。
しかし座長は、一向その意思を曲げず、納得できない上弟子全員を集めて、その場で●●に試し舞をさせた。
名作と言われる、「松風」、そして「熊野」の中の舞を、続けざまに●●に披露させたのだ。
●●の演舞は、その場の全員の度肝を抜いた。
繊細にして、大胆。
華麗にして、幽玄。
翻る指先が、地を擦る足先が、舞う髪の毛の一筋に至るまで、
裂帛の気合と、みなぎる情熱をたたえている。
兄弟子は、見ているだけで、心が震えだすのを感じた。
これは尋常の舞ではない。
技量に優れた舞ならば、日々己の周りで飽きるほどに見ている。
しかし、●●の舞は違った。
圧倒的な密度と質量で、周囲の空気を飲み込んでいく。
恐らく、●●の舞を見た全員が、同じ心地だったに違いない。
今すぐこの窮屈な正装を脱ぎ捨て、●●の隣で舞いたいと、ほとんど反射的に思った。
手足が、身体の奥が、
――踊り子の魂が●●の舞に震えていた。