第20章 Dawn rain
「緑谷くん忙しいんだ」
ぽつりぽつりと言葉を零してやっと無くなる梅酒。
腕まくりをして現れた腕の傷が胸を締め付ける。
「やっと軌道に乗り始めたからね、有難い事だね」
照れたように笑う姿はあの頃と同じなのに、何処か違って見える。
「まいかさんも最近良く見るよ」
グラスにこびり付いたグロスを撫でて笑う。
「そんな事ないよ」
心の隅で今も居座る朽ち果てた思いが居心地悪そうにもぞもぞと動き出す。
あの日用意した額は今もまだ使われる事は無い。今日でケリを着けるのだ。
「まいか」
ぐっと奥歯を噛み締めて心を決めた。瞬間、低い声が私を呼んだ。
顔を上げると立ち上がった紅が引き戸を指差し顎をしゃくる。
「かっちゃん…」
彼が苦笑いで呼んだ紅は、彼に見向きもせずに個室を後にした。磁石の様に後を追う。
立ち止まったのは手洗い場。
赤と青の暖簾の前で紅が私を見下ろした。
ざわつく店内に不釣り合いな静けさが二人の間に流れている。
「お前、怖ぇんだろ」
がしがしと頭を掻き溜息混じりに言われた。
眉根が寄った。言い返そうと下唇を噛んで見上げるといつものキツい視線は見当たらない。
「そうまでしてアイツの気持ちが知りたいんか。怖ぇのに聞きてぇんか…もう十分だろが」
後頭部を撫でられ、紅の手が首根っこにかかる。暖かなのに心に隙間風が吹きそうだ。
「アイツにお前は似合わねぇ。お前には俺しか居ねぇ」
言い聞かせる様、ゆっくり静かに言う紅の声に涙がポロポロと零れ出す。
私がずっと思っていた事を、今目の前に居る紅も思って居たのだろうか。少し違うけど、少し同じ。
「泣くな。お前は強ぇ。そんなお前が俺は好きだ」
首根っこに当てられた手がするりと頬に添えられた。少しかがみ込んで私を覗き込む紅が言う。
「でも…」
言葉に困る。ただ流れ落ちる涙は甘い香りを漂わせる掌を濡らすだけ。
「でもじゃねぇ。……俺はお前を泣かせねぇっつってんだ」
ぐずぐずと崩れる私の中の何か。
差し込んで突き破られる朽ち果てた思い。
「……でも、泣いても私は緑谷くんが好き…叶わなくても、ずっと」
その時、床が軋んだ。
音の在り処を探して、目が丸くなる。
「あっ、ごめん…立ち聞きするつもりじゃ…」
彼が申し訳無さそうに立ち尽くし、紅が舌打ちをする。
私は、駆け出した。