第17章 the world
「まいか太夫…お帰りなさいませ…」
男がそう小さく言葉を転がして彼女の方へ歩む。
すると彼女が僕目掛けて歩み寄る。
「よう約束守ったなぁ。偉いなぁ…身体こぉんな冷たぁして…お風呂、入り」
僕の頬を撫でる彼女は先程とはまた違う、昼間目にした少し悲しそうな顔で言う。
手を引かれ、遊郭の中に入り息を呑む。
僕が目にする現実が、あまりに非現実的で。
そして前を歩く彼女の香りが嫌って程に甘くて胸が詰まりそうだ。
「ここ、使うてええよ。タオルはここや。嫌やわ、スーツ台無しやなぁ…どないしょ…」
「あの、……気を遣わないでください。こうしてお話出来るだけで…」
顔を上げると大きな黒目が飛び込んだ。
例えるなら子供の頃に友人と競い合い作った泥団子の様に、光っているはずなのに何処か鈍い色をした黒目。
ぞわりと腰から首筋までの毛穴が一斉に立ち上がる。
「せやかて、私を待ったからヒーローが風邪ひいたなんて噂が立ってみぃな。たまったもんちゃう」
鈍い色から目が離せずに上手く息が出来なくて、やっとぱたりと閉じられた瞼にほっとした。
大きく息をつき、辺りを見渡せば最新型の家庭用浴室でアンバランスさに変な気分になってしまう。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「ゆっくり温まり。私の部屋は二階の奥やから」
そう言い残し閉められた扉を眺めてその場にへたり込みそうになる。
腰が抜けたのか、と焦りながら這いずる様に浴槽へ向かいやっとの思いで湯船に浸かった。
「あったかい」
緑色の湯に身を沈め、見慣れないシャンプーを見て呟いた一言は思いの外響かなかった。湯だけが、小さく輪を作り僕の言葉に反応を示した。