第8章 彼の見えざる手
―――
「依頼は片付いたのですか?」
「ん?何の事だい?」
「え……帰社の途中ではなかったのですか?」
薄雪の荷物を持ってやりながらいつもの調子で返す太宰。
「依頼ならきっと国木田君が片付けている筈さ」
「またですか」
薄雪が呆れながら溜め息をついた。
「彼」
「え?」
「知り合い?」
「どの『彼』の事を云っているのですか?」
質問自体が突然だったが何のことか本当に分からないらしい。
首を傾げて悩みだす薄雪。
「先刻の書店の店員」
「ああ。その『彼』ですか」
太宰の顔を見上げながら答え出す。
「知り合いというか2、3度接客して頂いた程度の顔見知りです」
「そう」
「治兄様?」
「なに」
「如何かされました?」
「何で?」
「何でって……顔が」
ピタリ。
薄雪の言葉で立ち止まる太宰。
1歩遅れて薄雪も止まった。
「顔が、何?」
太宰がこう云うのも無理はない。
それほどに太宰の今の表情は書店を出たときから一切変わっていないのだ。
薄雪に声を掛けた時と全く同じ、ニコニコと笑っている顔。
「良からぬことを企んでいる顔つきですよ、今」
「ふーん」
然し、薄雪は正しかった。
薄雪の答えと同時に太宰の顔から『笑』が消える。
「何か…有りました?」
「あったよ、色々。そして今からも」
「そうですか…力になれます?」
少し心配そうに。
薄雪は小声で問うた。
その仕草が想っていたものよりも『くる』ものがあったのだろう。
「わわっ!兄様!?」
「帰るよ」
手を繋いで歩き出す太宰。
向かう先は探偵社―――ではなくて。
「探偵社は此方ではありませんよ!?」
「知っているとも、そんなこと。『帰る』って云ってるでしょ」
「いやっ!未だ勤務時間ちゅ…っ!」
―――口を口で塞がれた。
数秒経って、ゆっくりと離れながら
「帰るよ、薄雪」
太宰はもう一度だけ、同じことを述べた。
コクッ
それ以上、何も言い返すことなく。
色白な顔を一瞬で朱色に染め上げた薄雪は、
繋がれた手に少し力を込めて頷くと
太宰が歩き出すまま隣を歩き始めたのだった。