第11章 斎児ーいわいこー
ただ節さんの父親だけが淡々として飛び起きた娘を眺めていた。伸ばした手を引っ込めて、見開いた目をらんらんと向けて来る娘に穏やかに話しかける。
「気付いたかね、節。お前、暑気中りで倒れてお寺にご迷惑をおかけしてしまったんだよ」
穏やかだが何かを堪えるような声音に何が潜んでいるかと言えば怒りだ。父親は節さんに腹を立てていた。…節さんに?いや、有り体に言えば節さんにだけ腹を立てているのではない。傍目には娘に腹を立てているように見えるだろう。だけど私には見えた。
節さんの真っ黒い目が、薄鳶混じりの明るい目になっている。
この一風変わった目には見覚えがある。
芯が黒くて周りが薄鳶色に明らむこの目は、以前は毎日見ていたが今はもう見ることが出来ない筈の目で、けれどつい先程鮮明に思い出した人の、鮮明に思い出したというよりもしかして久方ぶりに出会いしたかも知れない人の目だ。
そして節さんの父親はこの目の持ち主にも腹を立てている。腹を立てるどころか憎んですらいる。目の持ち主はもう居ない。今は節さんが仮初めの持ち主だ。だから父親の怒りと憎しみは節さんだけに注ぎ込む。
そういうことがいっぺんにわかった。たまさかそういうことがある。何故と聞かれてもわからない。ただそうだとわかるだけ。それが本当だということだけがはっきりしいていいて、他は何もわからない。これは舌禍と相まって私を苦しめる忌まわしい生得だ。
渦巻くような息苦しさとしんとした冷たい空気が暑い筈の室を席巻する。
「どうしてお前はそうなんだ。人に迷惑をかけてはいけないといつも言っているのに。人に厭な思いをさせるものではないといつも言っているのに。人を貶めるなと、騙すなと、裏切るなと、馬鹿にするなといつもいつも言ってるのに」
「徳次郎さん」
声音を尻上がりに尋常でない目光で娘を見据えた材木商の、また伸ばした手に住職の手が触れた。
「落ち着きなされ」
その一言は節さんの父親に向けられたものだったけれど、日頃の習いで私と節さんの傍で及び腰になっていいた雲水にも効いた。住職の物事を言い含め、教え諭すときの腰の座った静かな声は、説教をよくする人らしく耳馴染みよく人の気持ちを落ち着ける。