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第10章 丘を越えて行こうよ



県外に進学就職した詩音は帰省もまばら、地元の専門学校に入った一也とはほとんど顔を合わせることもなくましてゆっくり話すこともなくなった。
高校から学校が分かれ、中学でも友達付き合いや部活で忙しかった詩音は、年を負うに連れてどんどん遠い存在になっていくように見えた。
近所とはいえ同じ通りに家がある訳でもなければそうそう顔を合わせるものではない。
一也は年に数度見かけるか見かけないかの詩音の姿をその都度律儀に脳裏に焼き付け、幼馴染の女の子がー中身は兎も角ーどんどん綺麗になって行くのを見守って来た。が、こうして改めて身近く接してみれば、大人っぽく綺麗にこそなったが、詩音はまるで昔のままだった。
笑ってしまう。

詩音ちゃんはずっと詩音ちゃんのままだった。

帰って来たことを知っていても何となく声をかけれなかった。
加奈子と敏樹のことで頭を悩ませていたせいか、夏祭りの準備に忙しなかったせいか、それともただ単に気後れしたのか。

どれでもない気がした。

詩音が帰って来て嬉しい。
詩音が好きだから。
それだけでいい。

もし詩音が帰って来なくても一也の気持ちに変わりはない。今までずっとそうだったように。
ただ詩音が何処かにいてくれるだけで、それだけで十分だった。側にいてくれなくてもいい。こっちを気にかけてくれなくていい。詩音という存在があれば、それでよかった。
何でそんな風に思うのかわからない。詩音が他県で結婚したと知っても、寂しく感じはしても全く気持ちは変わらなかった。
この気持ちにはまるで曇りがない。虚勢も偽りもない、素直で単純なもの。

手を繋いで一緒に遊んでいた幼い頃からずっと、詩音は何ら変わりなく一也の中にいる。詩音は変わって行く。一也も変わった。だけど、一也の中にある詩音の場所はいつも同じだ。涼しくて温かくて、晴れて緩やかな風の吹く、丘の上のような場所。一也の心の中にしかない、見晴らしのいい気持ちのいい場所。

詩音が子供のとき、一也を引きずってでも行きたがった三望苑のイメージだ。結局三望苑に行くことは叶わなかったし、詩音はどうか知らないが一也は未だに三望苑からの景色を眺望していない。

「バカバカしいかも知れないけど…」

小さく口の中で呟いて、ステージの詩音を見ながらジーンズの後ろポケットに手を突っ込む。

三望苑には詩音ちゃんとじゃなけりゃ行けない。

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