第10章 丘を越えて行こうよ
控えめで優しい声がした。背中に柔らかな感触がある。鼻を啜って顔を上げたらいい匂いがして、百合の花束を抱えた加奈子さんが居た。
「今おうちに伺おうと思ってたの。…大丈夫?具合が悪いの?」
語尾が微かに震えて消える独特な話し方、白い顔に真っ黒な目、桃色の唇、相変わらずの加奈子さん。
詩音はガックリと地面に手を着いた。
「こ…これはヒドイ…。百合と薄皮饅頭じゃ話にならない…」
「饅頭?どうしたの、詩音ちゃん、大丈夫なの?饅頭がどうかした?」
「いや、あの、今にうちの父が薄皮饅頭お裾分けに行きますんで、要らなくても食べてやって下さい…」
「あら、先生が?父が喜ぶわ。先生とお話しするのが楽しみで仕方ないんだから」
「?お医者のお父様がうちのヘッポココラム作家と何のお話しをするんです?」
「プッ。……詩音ちゃん。お父さんをそんな風にいうものじゃないわよ」
「…今ふいた?ふきましたよね?」
「ふいてないわよ。笑っただけよ」
「どっちも一緒ですよ」
そう言って詩音はマジマジと加奈子を見た。変わらないけれど変わった。何だか前より人当たりが柔らかくなった気がする。
加奈子は笑いながら詩音の腕をとって立ち上がるのを手伝ってくれた。
「うちのお父さんと詩音ちゃんのお父さんは、ふたりでシルクロードを観るのが好きなの」
「シルクロード?あのNHKアーカイブ筆頭の中国四千年が喜多郎でシンセサイザーな?」
「ふふ。そうね。そのシルクロードを観ながら何だか色々話し込むのが楽しいらしいのよ。そのうちふたりで西域に行きかねない感じ」
「敦煌ですか」
「井上靖ね」
「…いい年こいてミーハーな…」
「いいことよ。憧れや目標があれば張りが出てなかなか呆けてられないじゃない?」
「ああ…。確かにふたり並んでここいらへんをうろうろ徘徊されるよりは井上靖キャーッ言ってた方がマシですよね。ええ、ずっとマシです」
「…詩音ちゃんて面白いのね。結婚して変わった?前はもっとお淑やかで大人しい感じだったわよね」
それは猫を被っていたからです。ホントはずっとこんなモンだし、言ったら実際はこんなモンどころじゃありません。
そうとも言えず曖昧に笑っていると、加奈子がポケットからハンカチを出して詩音の目を拭った。
「何で泣いてたの?」