第10章 丘を越えて行こうよ
「わあッ、止めろ!そんなの求婚だぞコラ!ぁいたッ!!」
叫んで起き上がったら、何かに頭がぶつかった。
「起きたのか。煩い寝起きだな」
愛想のない声の主は父だ。
「………ちょっと。何でまた勝手に人の部屋に入って来てんの?」
どうやらベッドサイドの本棚から父の手に取られた分厚い本に、勢いよく頭を打ち付けたらしい。こぶを撫で擦る詩音の横で、父は本を撫で擦っている。
「お前の石頭にぶつかったりしたから、可哀想に、本が傷んだ」
「何だ何だ。朝から娘に喧嘩売りに来たか?」
「母さんもこんな口が悪くて外面ばっかりの娘じゃなく、本を産めば良かったのに…」
「は?ほ…本?何を訳のわからないことを…。大体そんな我が子とどうやってコミュニケーションとるわけ?」
「読むしかないだろう、本なんだから」
「文字ばっかりだよ?」
「赤ん坊のうちは挿し絵しかないんじゃないかな。育つにつれてだんだん文字が増えて行く」
「ホントに欲しいか、そんな子供」
「最高じゃないか」
「我が子や孫を読まされるお母さんやおじいちゃんおばあちゃんの身にもなってみたら」
「最高じゃないか」
「…読まれる身にもなりなさいよ」
「最高じゃないか」
「夢の続きかってくらい意味不明で腹立たしいことばっかり言ってるけど、寝惚けてるの、お父さん」
「寝惚けてるのはお前だろう。一体誰から求婚されたんだ?」
「ノーコメント」
「詰まらないな」
「あーッ、もうッ!何、何の本を探してんの!?」
「広辞苑」
「…ああ、成る程ね」
父の手にある本を見て、詩音は顔を顰めた。広辞苑に頭突きなんかしたら痛いのも当たり前だ。
「広辞苑ならお父さんの部屋にもあるでしょ?何でわざわざ人の部屋まで来なきゃないのよ」
「お前が中学の卒業記念に貰った版が見たかったんだよ。この版は卒業記念に貰えるとわかっていたから買ってないんだ」
「いい加減出る度広辞苑買うのとか止めたら?何が面白いの?地震来たら本棚から落ちてくる広辞苑なんかただの凶器だよ?」
「広辞苑は広辞苑だ。落ちてきたからって凶器にはならない。ちょっと不幸な事故が起きうるだけのことだ」
「どこがちょっとだ。凄く痛いんだけど?」
「痛いと思うから痛い。痛くないと思いなさい」