第7章 ふたつ 彌額爾(ミカエル)の語り ー人の望みの歓びよー
あれきりエンゲルにもリーリエにも会ってない。
イーリスはそこそこ有名な音楽家の妻になって、溢れんばかりの音に囲まれて暮らしているらしい。イーリス·ワーヘナールとその両親に幸いあれ。
一度だけ、エンゲルのものかと思う絵を見た事がある。
清は蘇州の大きな娼家の庭先での事だ。
睡蓮の咲き乱れる夏の雨の日、編み込まれた竹で出来た涼し気な椅子の背にもたれ微睡む年若い妓女の向こう、薄衣の陰に懐かしい筆使いで描かれた百合が白く浮かび上がっていた。
降り落ちる間のほんの刹那の邂逅だったから、勿論定かな事は言えない。でもあれはきっとエンゲルのリーリエだ。どういう経緯であの絵がこの東の果てまでやって来たのかわからないが、エンゲル専属の画商カールならやりかねない事だし、エンゲルはカール以外の画商に自分の作品を預けはしないだろう。
私の絵は誰かの温かい部屋を飾るには寂し過ぎる気がするけれど、それでも何かの慰めや励みになるのならばこんなに嬉しい事はない。
そんな事を手紙に綴っていた彼の絵が、こんなところで思いがけない人達の目を楽しませている。そう思ったら胸が温かくなった。
僕はあの後巡り巡って東の果ての際へ降り落ちた。独逸、和蘭と来て今度は清、暫くは文字通り水が合わなくて苦労した。清では人だけじゃなく雨垂れまで理屈っぽくて弁が立つ。その上自分を何が何でも曲げないから厄介だ。
お陰で僕も持って回った重々しい話し方がすっかり身に付いてしまった。欧羅巴の雨垂れを甘く見て貰っちゃ困るからね。そう思っているうちに擦れっ枯らしの頭でっかちになってしまった気がする。
僕はあれ以来、他の為に祈っていない。
一箇所に長く留まる事がないせいかも知れないし、エンゲルたち程愛せる相手に巡り合っていないせいかも知れないが、どっちでも構わない。
ただの雨垂れが涙を流し、誰かを愛せる事を知ってしまった僕は、自分を愛したくなった。
他愛ない雨垂れである僕自身を慈しみたいと思ったんだ。
だから今は、自分の為に祈ってる。
僕の望みは海の底へ辿り着く事。
エンゲルの瞳のような水の底へ紛れ込み、リーリエの瞳のような空を遠く、遠く仰ぎ見る。
僕の祈りは届くかな?
ねえ、どう思う?
僕は届くと信じてる。
僕の愛した人たちに貰った、このミカエルの名にかけて。
彼が音もなく呼びかけてくれたこの名にかけて。