第5章 第四章 ドッペルゲンガーという概念は我々にはない
(強くなるには、か)
己の呼吸を乱さずに相手の呼吸を乱す。
あっさり言うが、それは簡単なことじゃない。彼岸花はため息をついた。
歌仙達のアドバイスを聞いたのち、彼岸花は取り敢えず呼吸を乱さぬ様、体力をつける事を第一目標とした。
体力をつける方法としては単純にして最も簡単な走り込みを行う。
………そんなこんなで、現在山を走った帰り道。
彼岸花は歩いていた足を、ふと止めた。
(………人がいる?)
いや、あの背の高さからいって、刀剣だろうか。とにかく長身の人が屋敷の塀に手をついている。
「…………」
長い黒髪がさらりと流れ、その人の横顔を隠した。
「………………た」
(ん?なんだ、何か言った………?)
離れているのではっきりとは聞き取れなかったが、僅かに聞こえた音と、そこから想定できる範囲で何を言ったのかは理解ができた。
『ただいま、帰りました』
その人は、そう言った。
(やっぱり内の本丸の刀剣?)
しかし、妙である。
ただいまを言うわりに、その人物は塀を越えようとはしないし、それだけじゃなく、その人物は何時までも塀に手をついたまま動こうともしない。更には………と、まぁこんな風におかしな点は上げ出したらキリがない程ある。
その中でも彼岸花が一番引っ掛かったのは、その人の纏う空気だ。
重苦しい何て言葉では甘過ぎるほどの暗い影。そりゃ、内の本丸はブラック本丸なので明るい奴は少ないが、でも、何か引っ掛かる。
背筋がぞわりとするような光景。
人が塀に手を付いているだけなのに、夕闇に紛れたその姿は恐ろしく、禍々しく。
彼岸花は、呆然と立ち尽くしていた。
「…………………っ、じゃない。話しかけるなら話しかけないと」
口では言ってみるが、本能が止めろと警告を発している。
迷った末にその人物を再び見た。
視界に映るのは、隅を溢したかのような黒い髪。真っ黒な服に、白い肌。
そして、此方を見つめる黄色と赤の眼。
死ぬぞ!!
はっきりと聞こえた脳内音声。彼岸花は、声をかける事を止めて踵を返した。
逃げろと、思ったのでそれに従い走る。
後ろなんて振り返る余裕も度胸もない。
何らかの禁忌に触れたような感覚。見てしまった、その顔は見たことのある顔で………彼岸花は真っ白になる頭の中でその名前を書いた。
ーーー太郎太刀