第2章 徒桜【るろうに剣心】
もう瞼を持ち上げる力も無いのだろう……閉じられたままの翠の目尻から涙が一筋溢れ出した。
「蒼紫……様…
一つだけ信じて…下さい……」
「……何だ?」
その溢れた涙を指で拭ってやりながら俺は聞いた。
「蒼紫様が御庭番衆だと知ったのは……
大奥に上がってから…です。
だから………あの頃の私は……ただ…純粋に………」
ただ純粋に……俺を想ってくれていた。
そうだな、翠?
分かっていた筈なのに、お前の想いを疑った俺を許してくれ。
己の欲望のままに、お前を抱いた俺を許してくれ。
頼むから……翠、死なないでくれ。
心の中に溢れ返る思いを上手く言葉に出来ず、俺はただ無言で翠を力一杯抱き締める。
それが俺の精一杯の返事だった。
「ありがとう………あお…し……さ…」
そしてこれが……翠の最後の言葉になった。
綺麗に襦袢を着せ付けた翠の身体を、俺達が愛し合った褥に丁寧に寝かせる。
翠の鼓動はまだ微かに続いてはいるが……直に止まるだろう。
もうあの儚げな笑みを湛える事も無い冷たい唇に、軽く触れるだけの口付けを落として……
俺は一人部屋を出た。
その後、翠の死は病に依る急死として処理され、俺達御庭番衆は秘密裏に蒲生君平を捕縛した。
粛清が執行される間際、俺が翠の最期を伝えてやると蒲生は翠の名を叫びながら何度も謝罪し、そして慟哭し続けた。
その姿を冷ややかな目で見下ろしながらも、これで翠の生き様が僅かでも報われた様に思えて、俺は蒲生を恨む気にはなれなかった。
こうして生まれて初めて愛おしいと思った女を失ってまで守り抜いた徳川幕府は、皮肉な事に蒲生の粛清後、大した時間も置かずに破滅の一途を辿る事になる。