第1章 その女
鬼鮫はやおら立ち上がって部屋を出、迷わず左隣の引き戸をノックした。古風な引き戸はガタガタとやけに大きな音をたてて、中にいるであろう女に訪ないを告げる。
「はい?」
声と同時に女が顔を出した。
眼鏡を額の上に押し上げて、視線を泳がせている。
「ああ・・・」
ハタと鬼鮫の顔にそれが行き当たった。
目が合う。互いの視線が絡んだ。
途端に鬼鮫の気持ちが疼いた。
"首に手をかけたい。鮫肌を抜きたい・・・"
女は不思議そうな表情を浮かべた。長身の
男が真顔で自分を見下ろしている状況を受
け止めかねているらしい。
「先程お会いしましたね。あー・・・どちら様で
しょう・・・?」
「・・・干柿と申します」
「はあ、ご丁寧にどうも・・・牡蠣殻と申しま
す・・・」
間抜けた声で返すと、この牡蠣殻とかいう女は眼鏡をかけ直し、一歩後ろに退いた。
「・・・大きいですねえ・・・」
"・・・案の定馬鹿ですよ、この女・・・"
何の用か聞くところだろう、ここは。そもそも何で不用心にもあっさり戸を開けたりするのだ。
鬼鮫にその気があればー切欠一つでいつでも手が動くほどにはその気十分だがー牡蠣殻は今ここで呑気に間抜け面を晒していないだろう。
鬼鮫は鷲掴みたくなる髷を眼下に、溜め息を吐いた。
「隣の部屋の者ですがね」
「そうですか。どうぞよろしく」
「たかが宿で隣り合っただけの相手と懇意にする気は一つもありませんよ」
「おお。全くもって納得のご意見ですが、世
の中には袖すり合うも他生の縁と言う言葉があるものですから、てっきりその手のご挨拶かと思いました。では何のご用で?」
"この頭に手刀か拳の一つも叩き落としてやれたらスッキリするんでしょうがねえ・・・"
「苦情を言いに来たのですよ。牡蠣殻さんですか、あなた、うるさいですよ」
「え?うるさかったですか?私?」
「そうでもなければ、誰が好き好んで見ず知らずの妙な女のところになぞ顔を出します
か」
「妙・・・いきなり清々しいくらい正直ですねえ、干柿さん」
「気安く呼ばないで下さい。腹が立ちますから」
「だったら名乗らないで下さいよ。変わってますねえ・・・」
「あなたに言われたくないですね」
「・・・何が何だかよくわかりませんが、サッパリ手がつけられないご様子・・・」