第17章 鬼鮫と磯辺
「・・・今度は一体何で泣いているんです?」
地面に着くのではないかという程頭を垂れる牡蠣殻に、鬼鮫は溜め息を吐いた。
「夕立だかゲリラ豪雨だか知りませんけどね、のべつ幕なく泣くのは本当に勘弁して下さいよ」
牡蠣殻の傍らに膝を着く。
「深水さんから増血剤を預かって来ましたから、取り合えず呑んでおきなさい。薬も持たずに飛び出すとは、愚かしいの一語に尽きる。あなたには心底イライラさせられますよ」
「干柿さん」
鼻声ではあるが泣き止んだらしい牡蠣殻が、ポツリと溢すように鬼鮫を呼んだ。
「何ですか?」
「心配をおかけして申し訳ありませんでした」
鬼鮫は片方の眉を吊り上げて牡蠣殻を見下ろした。
「ほお。素直に謝るのはどうやらあなたの数少ない美点の一つのようですねえ。で?」
「来て下さって、ありがとうございます」
「よろしい」
鬼鮫は、深く息を吸い、牡蠣殻を抱き寄せた。
血と薬草の匂い、そして栗のような煙草の香りが腕の中にわだかまる。
「・・・煙草臭いですねえ」
「すいません」
「・・・いいですよ。あなたがいるのがよくわかりますから」
「・・・・・・」
牡蠣殻の手が背中に回った。小さな感触に計らずも息が詰まる。牡蠣殻が胸に額を乗せたのがわかった。
「何ででしょうねえ」
鬼鮫は牡蠣殻の頭に鼻を埋めて、月を眺めた。
「どうしてあなたなんでしょうかねえ。こんなに腹の立つ相手もいないのに」
「そうですねえ・・・何でなんでしょうねえ・・・」
牡蠣殻は溜め息を吐いた。
「何でこうも安心するんでしょうね。こんなに怒ってばかりの人なのにねえ・・・」
鬼鮫は薄雲一つかからない月を眺めながら、腕に力を入れた。
「・・・・このまま・・・」
「だと、肋骨が折れるか、背骨が粉砕します。・・・手を弛めて頂けますか?」
「おや、また死にかけましたか?」
「・・・いや、また殺されかけたと言った方がより正確ですよ。・・・干柿さん、貴方本気で私の息の根狙って来てますね?」
鬼鮫はフッと笑って腕の中の牡蠣殻を見た。牡蠣殻も苦笑して鬼鮫を見返す。
扁桃の黒い瞳、薄い唇、減らず口、煙草、血、薄い体、本。恋しいと言いながらこの手からすり抜けて、今は腕の中に居る腹立たしい女。