第43章 ハネムーンでもリバティでもない(及川徹)
いつの頃からか、そんな妄想をしていたことすら忘れてしまっていたのですが、トオルと話しているうちに、その当時の気持ちが ほんのりと思い出されてきました。
幼い頃に耳で覚えた童謡を大人になって口ずさんだときと同じように、確かな意味などわからずとも、自分のどこかに、古い記憶となって結び付いているようでした。
触れているだけで、気持ちが相手に伝わるなんて。
現実にはありえないと、
今ではちゃんと分かっています。
大人ですから。
どれだけ肌を触れあわせても、喉を震わせて言葉に乗せなければ、誰にも心の奥は見てもらえないのです。
ずっと一緒に、なんてあの人には言えませんでした。
夜に逢瀬を重ねても、朝が来れば、魔法は解けて私はひとりになるのですから。
心に溜まった重さを小さな息にして吐き出すと「不思議だなぁ」とトオルが言いました。
「お姉さん、まるで、他の世界へいってたみたい」
そうよ、と私は言いました。もう彼の首筋に寄りかかるようにして、頭を乗せてしまっていました。
「私、夢から醒めて現実にかえってきたの」
「どこに行ってきたの」
「秘密」
一度は心の奥にしまおうとしましたが、結局、感情を零すように私は白状しました。「お付き合いしていた人の家よ」
「へえ、素敵だ」
「素敵じゃないわ。奥さんに会ったのよ。私」
一度好きになったら、相手の年齢や生い立ちなんて、関係ないと考えるのが私でした。今でもそれは間違っていないと思います。例え、自分と出会う前に、他の女性と結婚していたとしてもです。
『妻に勘付かれたよ。君に会いたいと言っている。今度我が家に来て欲しい』なんてドライブ中に言われた時も、軒の深い大屋根の家の前まで来た時も、私は何も怯えていませんでした。そればかりか、昂揚感さえありました。
これで正々堂々と戦えるのだ、と勇んだ気分でいたのです。狡猾な家庭弁護士や屈強な男の人が私を非難しようと待ち構えていたとしても、愛と若さを盾にすれば耐え抜けると踏んでいました。