第37章 静謐な人々(牛島若利)
「少し、考えてみたけど、」慎重に言葉を選んで、彼女は言った。「好きな人は、いない」
「そっか」
「でも、憧れてる人ならいる」
「つまらん」
「好きな人『とか』って聞いたでしょ」
「尊敬する人物は『とか』には入らないの」
少なくとも、色恋沙汰に発展しなさそうな話には興味が持てそうにない。
「そう」なまえは特に気を悪くした風でもなく、「じゃあ、質問の答えは、いない。になるわね」と言った。
つまんないの、と頬杖をついて、わたしは窓に目を向けた。「おや?」と思わず声を出す。「牛島だ」
目下の通りの向こうから、牛島若利の姿が見えた。
なぜすぐに気づいたかって、ここは2階の窓際で、牛島がこの店の前をロードワークで走るのをよく目にしているからだ。今日もジャージ姿で、相変わらず速いのなんの。けれど赤信号に引っかかり立ち止まる。
「あいつ、部活引退したんじゃなかったっけ」わたしはなまえに聞いたつもりだったのだけれど、彼女は何も返さなかった。
バレー部が全国出場を逃した、というニュースは白鳥沢全校を震撼させた。当然のように今年も、春高に全校応援でつれていってもらえると思っていたからだ。東京楽しみにしてたのにー、と愚痴を漏らす生徒さえいた。
春高バレー宮城予選決勝、王者敗退の結果を告げる夕方のローカルニュースを家で見ながら、「あの牛島も、負けることがあるんだ」と呟くわたしの横に座り、父は「俺だってな、マイケル・ジャクソンが死んだ時に同じことを思ったもんだ。『あのマイケルも、死ぬことがあるのか』ってな」とよくわからない方向から一緒に残念がってくれた。
バスケの試合でシュートをする時、ボールが手から離れる瞬間に、あ、これはゴールに入ったなと確信することがある。ボールが綺麗にゴールネットに吸い込まれていく。牛島の存在は、その時と似た気持ちにさせてくれる何かがあった。見ている者が、勝つだろうな、と無条件に信頼してしまう安心感。
そんな彼でも県大会で負けた。
脈々と続いていた連覇の数字が、彼が主将の代で途切れた。