第35章 瓶詰めラット(矢巾秀)※
及川と1対1で向かい合うのは居心地が悪かった。観察眼が鋭すぎて、見られていると畏怖すら感じる。
「練習に身が入らない時は誰だってある。感心しないけれど、途中で抜けたくなる時だってある」
及川の右手の指にはテーピングが巻かれていた。昨日の練習中にした突き指が未だ痛む、と練習前に零していた。
「それから、」と穏やかな、けれども芯のある声で彼は続ける。「誰にでも事情ってのがあるもんだしさ」
及川は、セッターとしてその才能を十二分に発揮していた。ボール捌きだけでなく、組織を纏めることにも長けていた。校内では女子に囲まれ、教師からの信頼も厚い。
矢巾の欲しい才能は、全て手にしているようにも見えた。けれど及川自身が渇望するものは、いつまで経っても得られていない。
人間にもきっと、個体差がある。諦めの早い奴と、諦めの悪い奴。
成功を信じてやまない及川は、誰よりも練習に熱心だった。無人となったギャラリーを見上げ、「急いでいるのか」と独り言のように矢巾に尋ねた。
「はい」
「今じゃないと、ダメが気がする」
「そうです」
「それなら、行っても良し」
「すみません」
頭を下げて、矢巾は走り出した。罪悪感が黒いもやとなり、シューズに纏わり付いてくるような気がした。明日は真面目に練習します、と心の中で言い訳をして、振り切って走る。
体育館を出て脇の階段を上り、ショートカットで南へ折れる。なまえはすぐに見つかった。
斜陽に霞む廊下の奥、無言で進む彼女の背中。
息を整え、足音を殺して、後を追う。
やがて彼女は一つの教室の中へと入った。準備室と言う名の、使われていない教室だ。ゆっくりと閉められたドアの音が、しんと静まった廊下に残った。
矢巾はそろそろと近づいた。鉄砲玉のように飛び出してきたは良いものの、実はその先は何も考えていない。どうしたものか、と思案して、中の様子を窺おうとしたところ、勢いよくドアが開いた。
「入れば?」
顔を出したなまえは、予想に反して明朗だった。「さっきからこそこそしてさぁ、バレないと思ってたの?」
ごめん、と矢巾は口ごもった。昔から、どうも要領が悪かった。