第35章 瓶詰めラット(矢巾秀)※
水瀬がいつも、どんなネクタイピンをつけていたのかなんて、気にしたことすらなかった。と言うよりも、つけていたかどうかさえ、思い出せない。
「よく貢ぐよねー、水瀬の女も」
ボールペンでしょ?腕時計でしょ?
あとあれもじゃない、車に乗ってるぬいぐるみ。
気取った女子の物言いは、これみよがしでなくても休み時間の教室によく響くので、矢巾はヒヤヒヤしていた。
適当に相槌を打ちながら、じわじわと視線をずらす。
近くの席に座る、なまえの様子が気になってしょうがなかった。
撫で肩で薄いなまえの背中は、こちらとは全く違う時間の流れにいるかのように、澄ました様子で沈黙していた。物思いに耽っているのか、それとも聞き耳を立てているのか。微動だにしないのが逆に怖い。
水瀬には恋人がいる。という噂は、もはやクラスでも有名だった。前の学校で講師をしていた頃に、同じ学年を受け持つ美人の英語教師を口説いたという謎の詳細まで矢巾の耳に入ってきていた。真偽のほどは定かではなく、誰が聞き出して広めたのかも不明だけれど、若い新任の教師に彼女の有無を根掘り葉掘り尋ねるのは高校生として礼儀みたいなものだったから、別に誰が発信源でも不思議はなかった。
「どんな人なんだろうね、彼女さん」
「年上らしいよ」
「じゃあアラサーじゃん」
「婚期迫って焦ってんかね?」
無邪気に言い放つ女子たちの言葉端には淡い侮蔑が滲んでいた。随分酷だなと思いつつも、10代という若さの特権を振りかざす同級生を矢巾は嫌いにはなれないでいた。