第26章 月が(赤葦京治)
ちらりと様子を伺いながら、そろそろと赤葦に身体を寄せる。右手をゆっくり動かして、時間をたっぷり使って、隣の上着へ指を這わせる。考え事でもしているのか、ぼうっとしている赤葦に気付かれることなく、わたしの指は彼のポケットの中へ侵入していく。奥へ、奥へ。体温の伝わる、狭くて温かい空間に右手を挿し入れていく。緊張で腕以外の部位を動かせないが、赤葦が振り向く気配はない。背徳感と罪悪感とスリル。思いがけず、興奮している自分がいた。
布越しにお腹を撫でれそうなくらい奥まで到達しても、何か入っている感じはしなかった。もしかして反対側のポケットだったかしら、と思ったとき、指先にツンと何かが当たった。スマホの感触ではなかったが、思わず握って引き抜いた。
鍵だ。
冷たさとサイズ感でそう確信した。背後に隠すようにしてこっそり握りこぶしを開いて見たら、大正解で鍵だった。ごくごく平凡な、普通の鍵だ。緑系の珠が5つほど連なった簡素なストラップが、申し訳程度についている。これは赤葦家の、その、例の掃除の不可能な部屋へと繋がる、玄関扉の鍵だろうか。それとも、他の誰かの———?
「ちっとも動きませんね」
赤葦が口を開いた。心臓がどきりと跳ねて、咄嗟に自分のポケットの中に右手を突っ込む。未だ外を見続けている赤葦に、「はぁ、動きませんね?」とおうむ返しに呟いてから、その意味を考えた。電車は依然、走り続けている。
「何が動かないの?」
「月です」
コツン、と赤葦が指先でガラスを叩いた。夜を映して鏡のようになった窓に、空を見上げる赤葦と、きょとんとした顔のわたしの姿が浮かんでいた。近寄って見ると確かに、窓枠の右上で、月が冴え冴えと輝いている。外の世界の夜空で、満月より少し端が闇に溶け出した、どちらかというと楕円に近い月だった。目の前を電線やビルの影が駆け抜けていく遥か上空で、しっとりと濡れているようなその月だけが、同じ位置から動かない。