第18章 宇宙的浮遊感(岩泉一)
「忘れたの?さっきのなまえちゃんの話」
及川が肩を組んだまま、軽く頭突きをしてくる。「”幸せ”、とは?」
「……”没頭感”、か?」
「そう。なまえちゃんにも、夢中になってる対象があるんです」
「寝ても覚めても?」
「自分とそのことだけで、頭の中がいっぱいになるくらい」
「それって、何だ?」
及川は肩をすくめた。
「これ以上言うともう答えだよ」
及川は、ぽん、と俺の背中を叩いて去っていった。「じゃねー、なまえちゃん」とひらひら手を振って。
「……どういうことだ?」
独り言は、急に寂しくなった部室にぽとんと落ちた。この空間に残っているのは、俺と、俯いたっきり黙っているなまえだけ。そうだ、足の様子を見てやんねーと。
壁にかかった時計を見る。もうだいぶ遅い時間だ。部室の戸締まりをして、鍵を返して、なまえのことを家まで、送って……あーもう、やることが多いな。
頭をわしゃわしゃと掻く。しょーがねーか。お世話係だもんな、俺は。
「なまえ、歩けそうか?」
窓を閉める。カラカラカラ、と乾いたサッシの音が響いた。なまえが何かぼそぼそと返事をしたが、声が小さすぎて聞き取れない。
「悪い。聞こえなかった。何だ?」
尋ねた時、暗くなった夜の向こうから、またふわりと風にのって漂ってきた。
夏の夜の匂いだ。
おしまい。
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