第31章 エスカレーターの下り
「……脹相」
「なんだ?」
声だけが返ってくる。
「……」
私は少しだけ迷った。
でも。
手すりを握っている脹相の手が目に入った。
大きな手。
見慣れているはずなのに、今日はなんだか触れたくなった。
私はそっと手を伸ばす。
そして――
脹相の手を、上から包むように握った。
「……」
脹相の身体がぴくっと固まった。
「……どうした?」
「なんとなく」
「……そうか」
声が少しだけ低くなる。
けれど、手は離さない。
私もそのまま握っていた。
「手、繋ぎたかった」
「……」
小さく呟くと、脹相の指先がわずかに動く。
「……そうか」
「うん」
「なら、言えばいい」
「言うの恥ずかしいから」
「……」
脹相はしばらく黙った。
そして、重ねられた私の手を、そっと握り返す。
「……これでいいか?」
「うん」
嬉しくなって、少しだけ笑う。
けれど。
脹相はまだ前を向いたままだ。
「……」
私は少しだけ唇を尖らせた。
「脹相」
「なんだ」
「こっち向いて」
「……」
「お願い」
脹相がゆっくり振り返る。
その瞬間。
「……」
「……」
目が合った。
下りのエスカレーター。
脹相が一段前。
私が一段後ろ。
だから、振り返った彼の顔が、いつもよりずっと近かった。
そして目線も。
不思議なくらい同じ高さだった。
「……近いね」
思わずそう言うと、脹相が目を瞬かせる。
「ああ……そうだな」
目が合ったまま。
どちらも逸らさない。
私はなんとなく恥ずかしくなって、それでも手だけは離せなくて。
「……なんか、変な感じ」
「何がだ?」
「いつもより目が合いやすい」
「……」
脹相は私を見つめていた。
その表情が、いつもより柔らかい。
優しい。
そして――少しだけ、嬉しそうだった。