Spoofing HAL -Akito ver.0.8
第2章 Execute Script: "Akito"
「……お前、なんで。弟なのに、そんなこと」
男の軽蔑。
それは、この場における最高の報酬だった。
それがアキトにとってなのか、遥斗にとってなのかは、わからない。
「なんでって、家族だからに決まってるでしょ?
ねーちゃんのことなら、隅から隅まで仕様を把握してるんですよ。
あんたなんかより、ずっと丁寧に保守(メンテナンス)してるんだから」
遥斗はアキトの笑顔を貼り付けたまま、吸っていた煙草の火を灰皿に押し付けた。
フィルターは、もはや原形を留めていないほどに拉げ、歪んでいた。
「次は頑張って。……まあ、次があればの話だけど」
言い捨てると同時に、遥斗は音もなく、ゆっくりとサッシを閉めた。
吸い込まれるように、滑らかに。
男の狼狽も、夜風も、すべてを厚いガラスの向こう側へと切り離す。
ハルが不安そうに、
遥斗の足元で『クゥン……』と短く鼻を鳴らした。
「ごめんごめん。怖かったな」
嘘だ。
ハルは少しも怖がってなどいない。
本当に震えているのは、自分の方だ。
この無垢な生き物は、知らない男が侵入していようと、
梓が誰とどんな熱を交わしていようと、仮想のアキに頼ることはない。
ただ『ハル』という確固たる個体としてそこに在り、何ひとつ損なわれていない。
それは本来、遥斗が維持すべきだった、維持したかった、
もっとも強固で理想的な「正常値」の姿だった。
その完璧な「正常値」を維持できない自分を、遥斗は許せなかった。
だから彼は、今、この瞬間だけ
『遥斗』という人格をシステムからパージして、
足元の毛むくじゃらな相棒へと預けている。
自分の中の「まともな倫理」も「静かな理性」も、
すべてハルの温かい背中に押し付けて、今の自分を空っぽにする。
そうして生まれた「アキト」という名の、
嫉妬と狂気だけで動く空虚なスクリプトを実行し続け、
彼は室内のソファへと背を向けた。