第7章 新たな道標
なのに剣心は言う。
背中を向けたまま褒めていたと。
誰にも見られない場所で笑っていたと。
斗亜は無意識に湯呑を握り締める。
指先へ力が入り、小さく陶器が鳴った。
剣心は静かに続ける。
「迷子になった日のことも覚えているでござる」
斗亜はゆっくりと顔を上げる。
「俺は…迎えに来てくれたことしか覚えてねぇ」
「父さんは」
剣心は遠い夜空を見つめた。
「半日、お主を探していた」
斗亜は目を見開く。
「半日も?」
信じられないという声だった。
剣心は静かに頷く。
「朝から日が暮れるまでずっと、お主の名を呼び続けていた」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
剣心の視線は、もう今の庭を見てはいなかった。
幼い日の景色を、その先に重ねているようだった。
「父さんは普段、怒る時以外大きな声など出さぬ人でござった。けれど、あの日だけは違った。喉が枯れるほど、お主の名を呼んでいた」
少しだけ声が低くなる。
「探して、探して、それでも見つからず。途中で膝をつき、土を握り締めて…それでも立ち上がり、また探し始めた」
斗亜は何も言えなかった。
そんな父の姿は、自分の記憶には存在しない。
どれほど思い出そうとしても浮かばない。
だからこそ、剣心の言葉が胸の奥へ深く染み込んでいく。
剣心は静かに息を吐く。
「そしてお主を見つけた時、父さんは怒らなかった」
斗亜の呼吸が止まる。
「先に膝をついて、肩を掴み…そのまま、強く抱きしめたのでござる」
胸の奥が大きく軋んだ。
視界が滲む。
涙になるより早く、どうしようもない熱が込み上げてくる。
剣心は優しく繰り返した。
「叱るより先に抱きしめたでござる」
その言葉は、静かな声なのに鋭く胸へ届いた。
忘れてしまった記憶の隙間へ、そっと差し込まれるように。
斗亜は唇をきつく噛み締める。
知らなかった。
知ることもできなかった。
だって、その日の記憶はもう、自分の中から零れ落ちてしまっていたのだから。
剣心は静かに息をつき、少しだけ間を置いた。