第7章 新たな道標
斗亜は苦笑を浮かべる。
「何言ってんだよ。俺は覚えてねぇって言ってるんだぞ。兄貴が覚えてたって…」
言葉の続きを見失う。
剣心は静かに湯呑を縁側へ置いた。
それから斗亜へ向き直る。
「お主が忘れてしまったなら、拙者が話すでござる」
その穏やかな声音に、斗亜は返す言葉を失った。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
忘れてしまった時間を取り戻せるかもしれない。
その代わり、もう戻らないものの大きさまで思い知るかもしれない。
胸の奥が落ち着かず、小さく波打つ。
剣心はゆっくりと語り始めた。
「お主の言う通り、父さんは厳しい人でござった。だが…斗亜には少し違っていた」
斗亜は眉をひそめる。
「は?」
そんな記憶はない。
剣心の声は静かだった。
だが、思い出を語る時だけ宿る柔らかな温もりがあった。
「まだ夜が明けきらぬ頃…父さんは毎朝、庭で木刀を振っていた。拙者も隣で振っていたでござる」
剣心は少し笑う。
「そして、お主は眠そうな顔をしながら、その横へ立っていた」
「俺が?」
「そうでござる」
剣心は頷いた。
「まだ小さくて、木刀を握る手にも力が入らず、何度も落としていた」
斗亜は思わず苦笑する。
今の自分からは想像もできない記憶だった。
「父さんは厳しく叱った。怖い声でござった。けれど、お主は泣かずに木刀を拾い直した」
剣心はその時の父を思い浮かべるように目を細める。
「その姿を見て父さんは背を向けたまま、一言だけ言ったのでござる」
ほんの少し間が空く。
「よく立った」
斗亜の胸が静かに震えた。
「それだけか?」
思わず問い返す。
剣心は穏やかに頷く。
「それだけでござる。だが、そのあと誰も見ていないところで、父さんは笑っておられた」
斗亜は息を呑む。
「嘘だ…」
「嘘ではないでござる」
迷いのない返事だった。
斗亜の中にいる父は、いつも厳しい人だった。
怖い人だった。
思い出せる優しさは、迷子になったあの日、差し出された大きな手だけ。
それ以上の記憶は残っていない。