第7章 新たな道標
けれど、一つだけ鮮明な記憶がある。
「迎えに来てくれたんだ」
そこで言葉が止まる。
父の顔はぼやけている。
声も思い出せない。
なのに近付いてくる足音だけは、今でも耳に残っている。
差し出された大きな手の温もりだけは、昨日のことのように覚えていた。
「手がでかかった」
斗亜は少しだけ笑う。
「ごつごつしてて…あったかかった。その手を握って家まで帰った。怒られたのかどうかも覚えてねぇ。でも…安心したことだけは覚えてる」
言葉を終え、静かに夜空を見上げる。
「母ちゃんは…」
自然と声が柔らかくなる。
「いつも優しかった。怒られた記憶がねぇ。抱きしめられた温もりとか…膝の上に座った感覚とか…背中を撫でてもらったこととか」
そんなものばかりが残っている。
「匂いも、少しだけ覚えてる気がする。苦しくなるとさ…時々、その匂いだけがふっと浮かぶんだ」
そこまで話して、斗亜は苦く笑った。
思い出せるのは温もりばかり。
肝心な顔も声も、もう霞んでいる。
それがたまらなく寂しかった。
肩を小さくすくめ、自嘲するように笑う。
「変だよな…親の顔も思い出せねぇなんてさ」
斗亜はそこで話を切り上げるつもりだった。
少し笑って、いつものように話題を変える。
そうしてしまえば、この痛みも胸の奥へ押し込められる。
これ以上踏み込めば、自分でもどこまで沈んでしまうのか分からなかった。
けれど隣にいる剣心は、その話を軽く受け流さなかった。
剣心は湯呑を手にしたまま、静かに夜空を見上げている。
何も言わない。
急いで慰めることもしない。
虫の声だけが、二人の間をゆるやかに流れていく。
長い沈黙のあと、剣心がぽつりと口を開いた。
「拙者が覚えているでござるよ」
その一言だけで、斗亜の胸が強く締めつけられた。
「何を?」
かすれた声で問い返す。
剣心はゆっくりと答えた。
「父さんも、母さんも、斗亜のことも」
斗亜は思わず隣を振り向く。
月明かりが剣心の横顔を淡く照らしていた。
穏やかな表情だった。
けれど、その瞳だけは遠い昔を見つめている。