第40章 【第三十五話】インクの檻
水の匂いがした。
冷たく淀んだ水面の上を、小舟がゆっくりと揺れている。
ラビは眉を寄せながら周囲を見回した。
空は暗く、境界の曖昧な霧がどこまでも広がっている。
「……?」
違和感が、先にあった。
振り返る。
誰もいない。
静かすぎる。
その沈黙を裂くように、低い声が落ちた。
「……ディック」
「あ?」
反射的に振り返った瞬間――
ゴキンッ。
「いってぇ〜っ!? 何すんさジジイ!」
額を押さえて叫ぶ。
目の前には、いつものしかめ面をしたブックマンが腕を組んで立っていた。
「黙れアホ! 何をボケーッとしとるか!」
「は?」
「お前は今、“ラビ”じゃろうが!」
「あ、前のログの名前で振り返っちゃった?」
「馬鹿モンが!!」
ずい、と顔を寄せて怒鳴られ、ラビはようやく息を吐いた。
やべ。
また“前の名前”に反応した。
今のオレはラビ。
ディックなんて名前は、とっくに捨てたはずだ。
「集中しろ。次のログは、今までみたいに甘くないぞ」
「えーっと……次のログって何処だっけ」
口元を掻きながら適当に返すと、ブックマンは呆れたように鼻を鳴らした。
「ヴァチカン直属対AKUMA軍事機関、“黒の教団”じゃ」