第32章 【第二十八話】赤い紐の先
「……師匠は、生きています」
静かな声だった。
アニタの瞳が、わずかに揺れる。
ティファは、震えそうになる指先を握り締めた。
「クロス・マリアンは、そんなに簡単に死ぬ人ではありません」
部屋に、沈黙が落ちる。
アニタはしばらくティファを見つめていた。
気丈に整えられていた表情が、ほんの僅かに崩れる。
煙管を持つ指が震えた。
「……そう思う?」
声は、ひどく小さかった。
天青楼の女主人としての声ではなかった。
クロスを案じる、一人の女性の声だった。
その瞳に、涙が滲んでいる。
ティファは、静かに頷いた。
「はい」
迷わず、答える。
「師匠は必ず生きています。だから、私達は追います」
アニタは目を伏せた。
一粒だけ、涙が頬を伝う。
けれど次に顔を上げた時、その目には女主人としての強さが戻っていた。
「……そう」
短く言うと、アニタは航路図を指で押さえた。
「なら、なおさら急ぎなさい。撃沈された海域には、毒の海が広がっていたそうよ。不気味な残骸と、救援信号を受けて向かった船も見当たらなかった」
ティファの胸が冷える。
「毒の海……」
「クロス様の行き先は、日本。江戸です」
アニタの声は、もう震えていなかった。
「私の船で、そこまで案内しましょう」
ティファは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼は、クロス様を連れて戻ってきてから受け取るわ」
アニタの笑みが、ほんの少しだけ寂しげに見えた。
そして、外へ控えていたマホジャを呼び、短く何かを告げた。