第32章 【第二十八話】赤い紐の先
「……師匠を、心配しているのですね」
アニタは一瞬だけ黙り、それから苦く笑った。
「笑うでしょう。女と酒と借金ばかり増やす、あんな最低な人を」
「いいえ」
ティファは小さく首を横へ振る。
「師匠は、心配されると逃げる人ですから」
アニタの瞳が、僅かに揺れた。
「心配してくれる人がいることを、きっと分かっているのに。分かっているからこそ、何も言わずに行ってしまう」
しばらく、沈黙が落ちた。
やがてアニタは、声を立てずに笑う。
「……本当に、よく分かっているのね」
僅かに緩んだ空気は、すぐに引き締まった。
アニタは卓の引き出しから、小さな航路図を取り出す。
「明け方、私の船を出します。江戸へ向かうなら、それに乗りなさい」
「船を……?」
「クロス様を追うのでしょう」
ティファは迷わず頷いた。
アニタは航路図をティファの前へ置く。
「ただし、確認しておきたいことがある」
「何でしょう」
アニタの表情が、静かに強張った。
「その後、クロス様を乗せた船が、海上で撃沈されたと報告があった」
「撃沈……?」
ティファの呼吸が止まる。
頭の中で、その言葉だけが鈍く響いた。
船が沈んだ。
師匠を乗せた船が。
一瞬、喉の奥が詰まる。
けれど、すぐに脳裏へ浮かんだのは、煙草の匂いを纏い、面倒そうにこちらを見下ろす赤髪の男の姿だった。
乱暴で、身勝手で。
肝心なことは何も言わず、いつだって勝手に背中を向ける人。
それでも。