第30章 【第二十六話】灯籠の湖
「……やはり、君はそうするんだね」
不意に、湖の奥から声が響いた。
身体が強張る。
次の瞬間、すぐ傍で金属が軋んだ。
ラビが鉄槌を構えていた。
先ほどまで少女のために静かに火を差し出していたその手が、今は一切の躊躇なく武器を握っている。
「……誰さ」
低い声が、湖面へ落ちた。
私は少女を背に庇いながら、顔を上げる。
無数の灯籠が流れる、その先。
半ば沈んだ鳥居の上に、一人の男が立っていた。
白に近い髪。
夜の湖へ溶け込むような、淡い色の外套。
整った顔立ちには、不自然なほど穏やかな微笑みが浮かんでいる。
水面には、灯籠の光も、沈んだ鳥居の影も映っていた。
けれど、その男の影だけが、どこにも見当たらない。
男の視線は、泣き崩れる少女にも。
鉄槌を構えたラビにも。
まるで向いていなかった。
最初から、私だけを見ていた。
「終われずに留まる魂を見れば、君は手を伸ばす」
低く穏やかな声。
喉の奥で、『ニルヴァーナ』が微かに脈打った。
「……あなた、最初から見ていたの?」
問い掛けると、男は僅かに目を細めた。
「見ていたよ」
その声には、驚きも迷いもなかった。
「あの村で、消えかけた少女へ歌を届けた時も」
胸の奥が、冷たく強張る。
アンナ。
霧へ呑まれかけた、小さな身体。
世界から消えようとしていたあの子を、必死に歌で繋ぎ止めた夜。